ジム・コリンズの『ビジョナリー・カンパニー』の発刊以降、組織がビジョンを持つことの重要性はビジネスの世界において常識となっている。では、リーダーはビジョンをどのように語れば効果を上げられるだろうか。近年の経営学ではこの問いを実証的に調査した研究の成果が蓄積。中心的な研究者が、米ペンシルベニア大学ウォートン・スクールのアンドリュー・カートンだ。

ビジョンはどうしたらもっと伝わるだろうか(イラスト:高谷まちこ)
ビジョンはどうしたらもっと伝わるだろうか(イラスト:高谷まちこ)

 結論から言えば、カートンによるとビジョンによって効果を上げるには「イメージを伝えるべきだ」という。どういうことか。「サステナビリティー」という言葉をビジョンに入れる場合から考えてみよう。

 言葉は人によって受ける印象が違い、サステナビリティーについては「環境問題」や「再生エネルギー」といった別の言葉を連想するだけかもしれない。漠然と「南極の氷が溶けるイメージ」や「オイルまみれの海鳥のイメージ」を思い浮かべる人もいるかもしれない。いずれにしろ、このままビジョンに入れても受け取る内容が社員の間でバラバラなため、ビジョンに向かって一致団結することは難しい。

 実は人の心をたきつけるのは言葉自体ではなくイメージであることが、多くの研究を通して明らかになっている。例えば、1年間に飢餓で亡くなる子供の人数を知ったとき、多くの人は心を痛めるはずだ。しかし、飢餓の実態を伝える1枚の写真があったならば、より多くの人の心に伝わる。つまり、具体的なイメージにはそれだけのインパクトがある。

 カートンらは2014年の論文において、米カリフォルニア州の300以上の病院を対象に調査を実施。その結果、ビジョンに具体的なイメージを与えながら医師と看護師に伝えている病院ほど、心臓病で再入院する患者の割合が減ることを明らかにしている。再入院の防止には、医師と看護師の間での協力関係が必要だといわれており、「明確なイメージを持つビジョンの下で、医師と看護師の確かな関係性と一体感が育まれた」とカートンは主張する。例えば、高い質のサービスを達成していたある病院では、ビジョンについて語った文章の中に、「臓器提供者が『この病院に臓器を提供したことは、私の人生の中で最も素晴らしい決断だった』と周りの人々に話してくれたとき、私たちのビジョンは実現されるのです」という具体的なイメージを伝える一節が入っていたのはその象徴といえるだろう。

「曖昧ビジョン・バイアス」のわな

 にもかかわらず、人にはビジョンを語る際に言葉を選ぶ傾向がある。カートンはこれを「曖昧ビジョン・バイアス」と名付ける。「曖昧ビジョン・バイアス」が生じてしまうのは、実は人の持つ2つの認知システムが好ましくない動きをするからだという。

 私たちの頭の中には「言葉や意味を処理するシステム」と「知覚や映像を処理するシステム」の2つが共存している。(科学的な観点からすると正確な表現ではないが)世の中で「左脳」と呼ばれるものが前者を意味し、「右脳」と呼ばれるものが後者を意味すると言うと分かりやすいだろうか。問題の「曖昧ビジョン・バイアス」は、「知覚を処理するシステム」ではなく、「言葉を処理するシステム」が過剰に活性化することで生み出される。

 例えば、会社のビジョンが「イノベーティブ」である場合、その内容を分かりやすく伝えるために準備している状況を想像してみよう。そのための手段として「イノベーティブは抽象的な言葉のため、『分かりやすい表現』や『気の利いたフレーズ』『感動させる言い回し』などで伝えたい。『革新的』『常識を覆す』『世界と未来を創り上げる』といった表現を使ってはどうか」と思ったとしたら、それは「曖昧ビジョン・バイアス」のわなに引っかかっている。つまり「言葉」「フレーズ」「言い回し」へ意識を向けている時点で、頭の中にある「言葉を処理するシステム」を活性化させており、生み出されるものは全て言葉にとどまる。その結果、ビジョンの内容自体はそれなりに分かりやすくなるかもしれないが、ビジョンによって社員の心に火をつける効果に至ることはない。

 この場合にまず行わなければならないのは、頭の中の「知覚を処理するシステム」を活性化させることだ。そして、そのための方法としてカートンが効果的だと主張するのが「メンタル・タイム・トラベル」だ。

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