「現状を認識することが出発点」

 「人が持つ能力を最大限に引き出すにはどうすればいいか」

 伊藤氏は最近、改めてそんなことをよく考えるという。思い返せば、キャリアの初めの頃、デルの「チーム伊藤」で志したことだ。SPEを率いるまでは自分の背中を見せて社員を引っ張り上げてきたが、ハイアールアジア、JDIでは共感を生み出せず、組織の「質」を変えるには至らなかった。

 明確な答えは出ていないが、1つ確信できることはある。「各々が現状を認識することが出発点」ということだ。デルやアディダスジャパン、SPEなどは伊藤氏が来る前から、社員の一人ひとりが会社の「弱さ」を自覚していた。その場所から、いかにしてはい上がるか。危機感があったからこそ、改革を主体的に捉え、打開に向けたチャレンジに踏み出せた。

 一方、ハイアールアジアやJDIはどうだったか。伊藤氏の急進なアプローチとの相性以前に、時代に追い越されたにもかかわらず、過去の成功物語にしがみつき、現状から目を背けてきた印象は否めない。高い技術力を秘めていても、会社の方向性を他人任せにして安穏を求めていては、厳しい競争には勝てない。現状が認識できていないと向かう方向すらも分からない。

 日本、という単位で見ても、よく似たことが言えるかもしれない。伊藤氏によると、東南アジアでは今、日本企業や日本製品に「納期を守らない」「英語が通じない」「価格が高い」といった印象を持つ人が多いという。おそらく、我々の感覚とは違うだろう。「『このままではやばい』と気づき、自分が何をすべきなのかを考えることが大事なのではないか」(伊藤氏)。

 新型コロナウイルスが蔓延する以前から、我々は「VUCA」と呼ばれる将来予測の難しい時代に突入している。コロナ禍は先行きの不透明さに幾重もの輪をかけた。ただ、なんとなく見えている将来像はある。これまでのように「会社」にばかり頼っていては、ビジネスパーソン一人ひとりが成長を実感するキャリアを描きにくくなっているということだ。

 会社に追い風が吹いていれば、社員は仕事や世代を問わず成長を実感しやすい。だが、成長が鈍化したり縮小均衡に転じたりしている中では、できるだけ変化せず逃げ切りたいと考える世代と、リスクを承知で攻めの一手を打ちたいと考える世代との間で分断が起きやすい。そして、往々にして強いのは前者だ。JDIやハイアールアジアでの伊藤氏の挫折の背景には、停滞する組織が抱えるそんな病があったのだろう。

 「コロナ後はこうすべきだ」といった啓発は常に多くのメディアや書籍をにぎわしている。ただ、実際のところ、正解など誰も分からない。だからこそ、より重要なのは、安直に正解を求めるのではなく、一度立ち止まって自分の頭で考えることではないだろうか。現状を認識しようとせず、誰かに解決してもらおうという受け身の姿勢では、絶えず変化する世間の正解に振り回されるだけだ。

 もっとも、未経験のことに挑戦しようとすると当然、不安になる。「ありきたりだがメンターを持つことが大事だ。個々が専門性を高めるほど、自分を研ぎ澄ませるとともに、他人を巻き込んでいく必要がある」。伊藤氏が「意識を共有できる仲間」を集めるため昨年立ち上げたSNSコミュニティー「300Xコミュニティー」のメンバーでもある米バブソン大学の山川恭弘准教授はそう語る。

 伊藤氏は企業向けの講演で、以前はよく「アンテナを広く張ろう」と話していた。ただ、最近は「今こそ足腰を固めよう」に変わっている。その心は、本質を見極めて自分の足で前に踏み出せる準備をすること、そして、世の中の動きや要求にただ反応するのではなく、その先を読んで自ら動くことだ。それは、伊藤氏が自分自身に日々、問いかけている言葉でもある。

 経営の最前線から距離をおいた50歳を挟む小休止を、今は「必要な期間だった」とも捉えている。厳しい経験を糧とし、一歩引いて物事を眺められるようになった実感はある。2年の充電期間で自らの経営メソッドを見直し、再設定することで、新たな挑戦への準備を整えている。

 「人生100年時代という言葉は好きではないが、生きている間、人生は続く」(伊藤氏)。それは、大組織を動かすプロ経営者であっても、現場に立つビジネスパーソンであっても、長きにわたって向き合うテーマだ。一人ひとりがこれまでの人生を振り返り、失敗があれば反省し、強みを再定義して、コロナ後も続く人生に挑む。世の中がスローダウンしている今は、現状を認識する習慣をつける絶好のチャンスなのかもしれない。

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 「プロ経営者」伊藤氏の自戒を引き合いに、私たちが今、すべきことを考えてきた本シリーズ。最後に、読者の皆様が抱いた疑問や悩みに対し、伊藤氏に直接、答えてもらう場を設けたいと思います。質問や相談を募集した上で、次回、伊藤氏にインタビューいたします。

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