もともと自動車は欧米日が3大マーケットだった。この中で、欧州メーカーは欧州で強みを発揮し、米国メーカーは米国で、日本のメーカーは日本で強いという当たり前のところからスタートしたのである。

 ところが1980年代に日本のメーカーが、米国マーケットで米国メーカーを圧迫するほど売り上げを伸ばした。その結果日米自動車摩擦が政治問題にまでなったのだが、日本のメーカーは日本からの輸出ではなく、北米で生産し、北米の部品を一定以上使うように現地調達率を定めた。これによって事態は沈静化し、日本のほとんどの自動車メーカーは北米に根を下ろし、日本と米国の2つの母国を持つようになった。

 2つの母国のおかげで、日本の景気、北米の景気がそれぞれ単独で悪くなっても持ちこたえることができるが、両方同時に来ると被害が甚大になる。リーマン・ショックが日本の自動車メーカーにとって大変だったのはこれが原因だ。

 一方、2000年代に入ると、中国マーケットが急成長し、日本の自動車メーカーが2つの母国を持ったのをトレースするように、ドイツメーカーが中国を第2の母国にし始めた。トヨタとフォルクスワーゲンの戦いの構造は、日米vs欧中という形で捉えることもできる。

 そして日本の自動車メーカーの中には3つ目の母国を狙って中国への進出を加速させたところもある。が、ここを掘り始めると長くなるので割愛する。

米国ではなくインドに進出

 で、スズキはどうなのか? 有名な話なので多くの方がご存じだと思うが、実はスズキも本当は、米国に進出したかった。しかし、軽自動車中心の会社にとって米国は相性が悪すぎる。そこへ「ぜひとも」と声をかけてきたのがインドで、スズキはインドに進出することになった。

 インドのマーケットは長らく世界の自動車メーカーの空白地帯であった。戦前に米GM(ゼネラル・モーターズ)や米フォード・モーターがノックダウン工場を立ち上げたが、1950年代にはこれらは撤退。以後、自動車の輸入を認めないという強い保護主義政策の下でインドの国産車のみが販売されてきた。1946年に旧宗主国の英国でデビューした「モーリスオックスフォード」を、インドの自動車メーカー、ヒンダスタン・モーターズがノックダウンして「アンバサダー」として販売していた。これが信じがたいことに2014年まで続いていたのである。

 1981年、スズキはインド政府の国民車構想にのっとって、インド政府76%、スズキ24%の出資でマルチ・ウドヨク社を立ち上げ、1983年には、軽自動車「アルト」のエンジンを800ccに拡大し、インド国内で生産した「マルチ800」として売り出す。以後1992年にスズキは出資比率を50%に、02年に54%に段階的に引き上げ、子会社化した。07年に社名を現在の「マルチ・スズキ・インディア」に改称した。

 マルチ800が発売されると、競合車だった1946年設計の走るシーラカンス、アンバサダーとの性能差は誰の目にも明らかで、なおかつ価格的にもアンバサダーの3分の2でデビューしたマルチ800はインド市場を席巻していく。ピーク時には市場の8割をスズキ車が占めていたという話も耳にしたことがある。

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