インターネットの世界で米国に水をあけられてしまったドイツ。だが、彼らは自身のミスを認め、それを次なる世界で生かしていこうと動き始めた。勝機を見いだしたのが、当時はまだインターネット化されていなかった産業の世界。そこから「インダストリー4.0」は生まれた。
東芝執行役上席常務・最高デジタル責任者で、東芝デジタルソリューションズ取締役社長を務める島田太郎氏とフューチャリストの尾原和啓氏による連載「スケールフリーネットワーク」の最終回では、ドイツが推進するインダストリー4.0、そしてそこに意識的に組み込まれたスケールフリーネットワークを見ていく。
※1月8日発売予定の『スケールフリーネットワーク ~ものづくり日本だからできるDX~』から一部を抜粋して連載します。書籍の内容とは一部、異なりますことをご了承ください
私(島田)が2014年にシーメンスのドイツ本社に着任したとき、ドイツはインダストリー4.0への変革の真っただ中にありました。私はソフトウエア畑を歩んできたこともあって、デジタルファクトリーの担当となり、インダストリー4.0を推進している人々とともに仕事をし、彼らと数多くの話をしてきました。
その中で特に印象的だったのは、彼らが口々に「インターネットで起きたことを、次は産業の世界で起こす」と言っていたことです。ドイツ人はそもそも哲学的な人が非常に多いのです。彼らはインターネット登場から現在までの歴史を俯瞰(ふかん)的に振り返り、「我々はインターネットで敗北した」ととらえていました。
その一例が、私が在籍していたシーメンスです。インターネットが急速に発達した90年代から通信・ネットワーク関連の事業を手がけていましたが、やがて見切りをつけて事業売却してしまいました。
当時の重役が「インターネットなど、我々が手がけるほどの規模にはならない」と言っていたのを、私は今でも覚えています。その後の展開はご存じの通りです。インターネットは大きく躍進し、GAFAをはじめとする米国の新興企業が巨大な企業価値を持つようになりました。インターネットこそ、現代の世界で大きな価値を生む「金の卵」だったのです。
私は、通信・ネットワーク事業から手を引いたのはシーメンスにとっては間違った決断だったと今でも思っています。そのまま事業を続けていれば、大きな可能性を捨てずに済んだでしょう。
インターネットの世界で米国に水をあけられてしまったのは、ドイツにとっては痛恨の出来事だったはずです。しかし、彼らが偉いのは「自分が間違っていた」と認めたこと。ドイツの哲学者ヘーゲルが提唱した「アウフヘーベン(止揚)」と通ずるものがあります。過去の間違いを認めた上でその事象を昇華させ、次なる世界で生かしていこうという姿勢を持っているのです。
彼らは、自分たちが一度は過小評価したインターネットの力を改めて見直し、次なるチャンスを探しました。そこで勝機を見いだしたのが、当時はまだインターネット化されていなかった産業の世界だったわけです。
インターネットで起きたことを産業の世界で起こす
この分野はシーメンスが強固な基盤を持っており、製造業はドイツのお家芸でもあります。産業の世界ならインターネットの覇者になれると気づいた彼らは、そのために必要な要素は何かを考え、着々と歩を進めていくことにしました。
実のところ、いずれ産業の世界でもインターネットによる革新が起こるだろうというのは、決してとっぴなアイデアではありません。少し考えれば想像がつく話です。私もシーメンス時代に何度も日本の大手企業のエンジニアたちと話をしましたが、誰からも「確かにそうなるんでしょうね」という反応が返ってきました。それでも、そこに本気で突っ込んでいく人がいないのです。
「CPU(中央演算処理装置)の計算能力はどんどん上がっているんだから、汎用品で動くようになる」「ネットワークの速度が上がればクラウドに移管できる」「そうなったらソフトウエアの方が価値が出てくる」といった話は、エンジニアならある程度予測がつく話です。
しかし、実際にそれを実現するためには、大きな設計図を描いて技術を規格化・標準化し、法的な枠組みをつくり、参加者たちの利害関係を調整し、職業訓練や研修を通じて人材を育成して、といった途方もない労力と時間が必要になります。
ドイツが恐ろしいのは、一度「自分たちはこの方向へ行く」と決めたら、着実に歩を進めるところです。この大きな課題に対し、産官学が一体となって何が必要になるかを考え、10年先、20年先という将来を見据えながら「ここはこうする」「こっちはこうやる」と一つひとつクリアして着々と前に進んでいきます。
彼らは「これを実現するには10年や20年はかかる」と最初から平然と言うのです。そんな彼らの姿を見ていて思い出したのは、ドイツが誇る世界最大のゴシック建築、ケルン大聖堂です。実際にケルン大聖堂の前に立ってみると、そのとてつもない大きさに圧倒されます。石をこつこつ積み上げていけばここまで巨大なものが造れるのかとぼうぜんと見上げたのを覚えています。
そんなケルン大聖堂の建設が始まったのは1248年。完成したのは1880年で、なんと600年以上も完成までに月日を費やしています。石さえ積んでいけば、いずれたどり着けることは分かっていますが、それを淡々と600年以上もやり続けてしまう。これがドイツの強さなのかもしれません。
実は、スケールフリーネットワークを作るには、ケルン大聖堂のように「信念に基づいてやり続ける」ということが非常に重要となります。ネットワーク作りは、短期的に目に見える結果が出るとは限らないからです。つながった後の世界を信じて、ひたすら作り続けるしかないのです。
ドイツは現在、ファクトリーオートメーションで得た利益をどんどん将来に向けて投資しています。虎視眈々(たんたん)と機会をうかがい、いざ機が熟したら真っ先にチャンスをつかむためです。
一方、日本を振り返ってみると、私はバブル崩壊の影響をいまだに引きずっているように感じます。目先の四半期決算の数字を気にしすぎるあまり短期的な対応に終始し、内部留保が積み上がっている企業も多いのではないでしょうか。世界の枠組みが再び大きく変わろうとしている今、改めてアーキテクチャーのレベルから新たな絵を描き、投資を進めるべきときに来ていると思います。
日本人は本来「長期でものを見る」ことが得意だったはずです。飛鳥時代に将来を見据えて建立された法隆寺や薬師寺の東塔は、1000年以上の時を経た今もなお健在です。これから始まる「2回戦」では、それを思い出して長期的な視点でビジネスを進めることが重要です。
インダストリー4・0の本質は「管理シェル」
インダストリー4.0が目指す世界について、もう少し具体的に説明してみましょう。
インダストリー3.0の時代、つまり従来の製造業の世界は、ピラミッド型の階層構造になっていました。工場内にはワークセンター、作業ステーション、制御装置、そしてフィールド機器といった階層があり、情報のやり取りは階層間で行われます。これの何が問題かというと、階層を飛び越えてデータを直接見ることができない点です。すべての機器が上の階層の端末にぶら下がる、樹形図型のネットワークでした。
これがインダストリー4.0の世界になると、生産システムのあらゆるコンポーネントが階層の垣根を越えてつながるようになります。必要なときに必要な機械やセンサーの情報を自由に取れるようになるのです。また、一つの工場内だけでなく、他社の生産設備ともインターネットを介してつながれるようになるのです。
そんな世界を実現するために定義されたのが「管理シェル」です。これは生産システムに関わる「すべてのモノ」をインダストリー4.0の世界につなぐためのインターフェースになる標準化されたデータ形式で、インダストリー4.0の核心部分と言えます。
従来の生産設備は、分野や業界によって異なる規格や標準を使用しており、そのまま機器同士をつなぐことはできませんでした。「管理シェル」は「ラッパー(Wrapper)」という考え方で作られており、各機器を共通のインターフェースで包むことで、既存の古い設備も含め、あらゆる機器に同じ方法でアクセスできるようになるのです。
さらにこの管理シェルは、生産設備や機械部品だけでなく、ソフトウエアや注文書などのドキュメント、そして技術者やオペレーターなどの人間までを対象としています。まさにフィジカルの世界とサイバー空間をつなぐ、橋渡し役となるのです。
ドイツがインダストリー4.0の中核として作り上げた管理シェルですが、実はその仕様は公開されており、誰でも自由に作ることができます。このオープン化が極めて重要なポイントです。公開された仕様に沿って東芝でも自前で管理シェルを作ってみましたが、現場の人間が「すごい!」と驚くほどよくできていました。
例えば、新たに工場にラインを導入する際に各機器に管理シェルを用意しておけば、メンテナンスに必要なパラメーターや図面、スペックシートなどといった情報にいつでもインターネット経由でアクセスできます。
ラインに不具合が発生した際も、機械の部品の仕様といった細かい情報まですぐに集められるため、外部のラインサプライヤーが現場に行かずにトラブルの原因を特定したり、常にモニタリングすることでトラブルを未然に防いだりすることも可能になります。生産の現場にとっては本当に魅力的なツールで、誰もが導入したくなることでしょう。そして管理シェルを導入することで、インターネットに接続する意味が生まれます。
ドイツは、誰もが使いたくなる魅力的な管理シェルを無償で公開し、世界中にばらまきました。これを世界中の工場が採用すれば、自然と産業のスケールフリーネットワークができあがるというわけです。
インターネットで一度敗北したドイツは、スケールフリーネットワークの威力を思い知りました。そこでインダストリー4.0では、意識的にスケールフリーネットワークが生まれる仕組みを組み込んでいます。彼ら自身はそれをスケールフリーネットワークという言葉では説明しませんが、私から見ればそれらはスケールフリーネットワークそのものです。
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だが、今、GAFAが押さえているデータは一部に過ぎない。多くの価値あるデータがオフラインの世界に手つかずのまま眠っている。ハードウエアに強い日本はこれらをうまく活用できれば、これから始まる2回戦を優位に進められる。そのために押さえておくべきネットワーク理論「スケールフリーネットワーク」のビジネスでの実践方法とは。
スケールフリーネットワークを実践してきた東芝執行役上席常務・最高デジタル責任者で、東芝デジタルソリューションズ取締役社長を務める島田太郎氏、『アフターデジタル』や『DeepTech(ディープテック)』などのベストセラー書籍を通じて日本が進むべき道を照らし続けるフューチャリストの尾原和啓氏が、スケールフリーネットワークがもたらすインパクトを解説する。
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