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見切りの早さも比類なし

 ここまでの軌跡は、元気な地方企業の成長ストーリーにすぎない。ユニクロの名を一躍全国区にし、アパレルで世界3位となった現在に通じる飛躍の原点となったのは、98年に始まったフリースブームだった。東京・原宿に初の東京都心店「ユニクロ原宿店」を開業。フリースを求める消費者が開店前から行列をつくり、閉店まで入場制限が続いた。

1998年に発売したフリース。SPAの長所を存分に生かし、価格を1900円に設定して爆発的な人気を博した

 このころには生産量を引き上げてコストを下げるSPAの長所を生かせるようになり、数千円が当たり前だったフリースの価格を1900円に設定した。当時の日経ビジネスは99年度の販売計画が800万着と指摘し、「ファーストリテイリングの実力を世に知らしめる“事件”が起こった」と書いている。

 だが、飛躍の裏では目に見える失敗が次々に発生していた。挑戦したからこその失敗であり、負けを負けと率直に認める柳井氏の姿勢ゆえに目立ってしまった面はある。それでもこのころは行き詰まる事業が頻発し、ファストリの先行きも危ぶまれていた。

 97年10月にスポーツウエアの専門店「スポクロ」、婦人服や子供服も扱う「ファミクロ」という新しい業態に挑戦。専用のロゴも作り一気に9店舗ずつ出店し、両業態とも十数店舗まで増やした。売り上げが予算に届かず、新業態で新規顧客を掘り起こすつもりが、ユニクロとの自社競合が起き、98年5月には撤退を決めた。

 94年末にニューヨークに開いたデザイン子会社も98年7月に解散。現地のデザイナーと東京、大阪、山口に分散した商品企画の担当者の意思疎通がうまくいかなかった。

 フリースの爆発的な販売から、業績も反動減を招いてしまう。2001年8月期の売上高は2年前に比べ4倍近い4185億円、営業利益は7倍の1020億円。ところがブームが一巡した02年8月期は前の期比18%の減収で営業利益は半減した。減収減益は上場来初めてだった。

 「成長というよりも膨張だった」。柳井氏はフリースの成功でファストリが大企業となり、社内に保守的な風潮が生まれたと考えた。打開策として掲げた一手が野菜や果物の販売事業。業績不振の中で新しいことに挑戦する意志を示し、国内の農家と直接契約して流通や販売を自社で手掛けた。

 02年9月に子会社「エフアール・フーズ」を設立。しかし、この会社も1年半後の04年3月、特別損失二十数億円を計上して解散を決めている。「我々は野菜・果物づくりの専門家ではないし、農産物は工業製品のように生産計画通りにはできない」。遅れている日本の農産物市場を改革するとしていた参入時とは逆の説明。「ファーストクロージング」(素早い撤退)と揶揄された。

 それでも素早い撤退は損失を最小限に抑えた。ファミクロもスポクロもそうだった。まず行動し、間違っていたらすぐに修正する経営の繰り返し。柳井氏は著書で「失敗は単なる傷ではない。次につながる成功の芽が潜んでいる。実行しながら考えて、修正していけばよい」と記している。当時の野菜事業の責任者は今、子会社のジーユーを率いて柳井氏の信頼が厚い柚木治氏だ。向こう傷を恐れずにチャレンジする中から人材も育ててきた。