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柳井正氏。「唯一自慢できるのが、失敗しようとも、思っていることを実行してきたこと」と語る(写真:的野 弘路)

2人ぼっちでの品出し

 「失敗は成功のもと」「艱難(かんなん)汝(なんじ)を玉にす」といわれる。だが、柳井氏ほど目に見える失敗を数多く重ね、そこからはい上がってきた経営者は少ないだろう。最初の失敗は23歳のときだ。跡取りとして銀天街に戻った半世紀前に遡る。

 紳士服店とカジュアルウエアのVANショップを営んでいた小郡商事に勤めてみると、「品ぞろえも仕事の流れも効率が悪い」と感じた。早稲田大学政治経済学部を卒業後、最初に勤めたのは父親の勧めで入社したジャスコ(現イオン)。どうしても仕事に真剣に取り組む気になれず、9カ月で退社したが、配属されていたのは創業店の四日市店だった。目にした期間は短かったとはいえ、後に日本最大の小売業となる大手の店舗は活気に満ちていた。

 それに比べると家業の店はどうしても見劣りしてしまう。あれこれ改善策を考え、「こうすべきだ」と言い続けると、6人ほどいた従業員が1人を残して退社してしまった。「激しくぶつかったつもりはないが、正論を言われてついていけなかったのかもしれないし、店の将来性に疑問を持ったのかもしれない」。柳井氏は著書『一勝九敗』にこう書いている。

 後にファストリで役員になる浦利治氏しかいなくなった店で、仕入れや品出し、接客から掃除までこなしていると面白さを感じ始めた。「自分で考えて、自分で行動する。これが商売の基本だと体得した」。父親からは何も言われず、通帳と実印を渡された。25歳になっていた。

 このころ、「洋服の青山」といった紳士服チェーンのほか、ショッピングセンターも台頭していた。「小郡商事は苦戦して、柳井さんも悩んでいるようだった。何年間も『閉店セール』を頻発していた」。当時を知る銀天街の商店主は振り返る。繁盛している婦人服店を柳井氏がたびたび見に行っていた様子を覚えているという。

 転機は1984年に訪れた。広島市の裏通りに開いた低価格カジュアル服店「ユニーク・クロージング・ウエアハウス」が大当たりした。後のユニクロだ。

 この店が注目を浴びたのは、それまでの洋品店と一線を画し、当時としては斬新なコンセプトにあふれていたため。売り場は倉庫のようで、接客を省くセルフサービス。無駄を排除した店づくりをさらすように顧客に見せつけ、「だから安いのか」と納得して買い物をしてもらう。商品はシンプルで男性用と女性用の境が低い。セルフサービスは当時珍しく、消費者は気軽に入り、楽しみながら洋服を選べると感じた。

 広島の店が成功し、2、3号店と開くうちに柳井氏は気付いたという。「トレンドよりベーシックなものに大きな需要がある」。カジュアル服であれば対象も老若男女に広げられる。トレンドを追い、ファッション性を重視するZARAやH&Mと逆のコンセプトは、このころに形作られた。

 87年には協力工場にオリジナル商品の製造を発注し始め、商品の企画開発から販売まですべて手掛けるSPA(製造小売り)への転換を始めた。自らの手で生産管理まで手掛ければ、仕入れ品に比べ品質を安定させ、商品構成を一貫したものにできるはず。米GAPが先行していた経営形態で、日本で本格的なSPAに踏み出すのはファストリが初めてだった。

 だが、品質はすぐには上がらなかった。ボタンの位置がずれていたり、表地と裏地を間違えていたり。95年10月には「ユニクロの悪口言って、百万円」と新聞や雑誌に広告を出し、実際に抽選で1人に100万円を払っている。人目を引くコピーで知名度を高めたかったのではない。買い手の本音を拾って品質を改善しないと立ち行かなくなると危機感を抱いていた。

 「Tシャツを一度洗っただけなのに首のところが伸びた」「トレーナーを洗ったら糸がほどけた」。果たして届いた1万通弱の意見のほとんどが品質へのクレーム。SPA初期の品質について柳井氏は失敗だったと自己評価している。それでも「自分たちが送り出した商品の失敗を直視し研究、改善する。失敗の連続だったが、そこから次の成功の芽を導き出す」と著書で振り返っている。

 こうした取り組みは徐々に品質を引き上げていった。店舗網も順調に増え、売上高が333億円となった94年に広島証券取引所に上場。750億円に達した97年に東証2部に上場した。