東京と北関東を結ぶ東武鉄道。その歴史をたどると、明治から令和まで1世紀を超える根津家3代の軌跡が浮かび上がる。祖父から孫まで引き継がれた言葉は「終始一誠意」である。

冬の曇天を突き抜けてそびえる東京スカイツリー(東京・墨田)。新型コロナウイルス感染拡大でインバウンド(訪日外国人)、国内観光需要が大打撃を受け、2度目の緊急事態宣言直後の1月中旬、スカイツリーの周辺に観光客の姿はまばらだった。
東武鉄道の根津嘉澄社長は「(客足が)戻るには時間がかかるだろう。それまでに自動運転やデジタルトランスフォーメーション(DX)など今後の鉄道、サービス事業の発展に必須となる技術を磨く」と巻き返しを誓う。スカイツリーを建設したのが嘉澄社長。1999年から今に至るまで東武のトップを張る。
スカイツリーで日本一の高さから東京の景観を一望した後、東武鉄道が止まる最寄り駅から特急に乗れば100分ちょっとで関東屈指の観光地である日光まで足を延ばせる。東京から北関東まで走る東武鉄道のレールを敷いたのが、嘉澄社長の祖父である根津嘉一郎氏だ。東武の大株主だった嘉一郎氏は当時の東武首脳に経営参画を頼まれ、1905年に社長に就いた。

東武の悲願、利根川を越えた男
「前途は路線延長にある。利根川に橋梁をかけようじゃないか」。就任してすぐ経費削減に取り組んだ根津嘉一郎氏は積極先に出た。会議では役員たちが「時期尚早だ」と慎重姿勢を崩さない。しかし、東武の悲願だった利根川越えを果たそうと、嘉一郎氏は役員たちの説得に力を尽くした。
そもそも東武鉄道は、江戸と北関東を結んで物資を流通させるために設立された。このルートは利根川を使った船便が主な物流手段だったが、鉄道を通せば安く大量に物資が運べるはずだった。しかし、路線は現在の埼玉県羽生市まで、つまり利根川の手前で止まってしまっていた。利根川に橋を架けるのは莫大な資金がかかる。資金難に悩まされていた東武にとって、その大事業はいちかばちかの賭けになった。
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