日本が隆盛を誇ってきた車載用を含む電池業界。いまや中国や韓国勢の追い上げを受け、電気自動車(EV)には米アップルの参入も噂されている。勢力図が大きく変わろうとする中、日本は競争力を保てるのか。「リチウムイオン電池の父」とも言われ、2019年にノーベル化学賞を受賞した吉野彰氏は、「2025年が分岐点となる」と断言する。その理由とは。

1981年に電池の研究開発をスタートされました。当時は電池の市場がこれほど拡大すると予想できましたか。

吉野彰・旭化成名誉フェロー(以下、吉野氏):私が開発を始めた当時は色々な機器がポータブル化するという時代背景がありました。ですが、今みたいな携帯電話やスマートフォン、ラップトップパソコンといった具体的な用途、どんなマーケットがあるのかっていうのは、まだ誰も予測してなかった。

 そんな時に具体的なマーケットがあり、市場規模のあるものとして出てきたのが、85年発売のソニーの8ミリビデオカメラでした。商品化にあたって電池を小型軽量化する必要がありましたから。その後、ソニーさんは独自の規格開発を進めて、91年にリチウムイオン電池を商品化した。僕としては半分出し抜かれたというのもあるんだけども、現在のリチウムイオン電池が世の中に出たことはすごく意味がありました。

<span class="fontBold">吉野彰(よしの・あきら)</span><br> 旭化成名誉フェロー。1970年京都大学工学部卒、72年京都大学大学院を修了し旭化成に入社。旭化成に入社後、研究部配属となり最初の研究テーマは「安全合わせガラス用中間膜」だったものの2年で失敗。81年、4回目に選んだテーマ「導電性高分子」の研究がのちの電池材料の開発につながる。2005年に大阪大学で博士号を取得。17年に旭化成名誉フェローに就任。19年、ノーベル化学賞を受賞。
吉野彰(よしの・あきら)
旭化成名誉フェロー。1970年京都大学工学部卒、72年京都大学大学院を修了し旭化成に入社。旭化成に入社後、研究部配属となり最初の研究テーマは「安全合わせガラス用中間膜」だったものの2年で失敗。81年、4回目に選んだテーマ「導電性高分子」の研究がのちの電池材料の開発につながる。2005年に大阪大学で博士号を取得。17年に旭化成名誉フェローに就任。19年、ノーベル化学賞を受賞。

吉野さん自身も、リチウムイオン電池を事業化してから、しばらく市場では売れないという経験をしたそうですね。

吉野氏:新しいものが世の中に出てきたら、必ず「ダーウィンの海(事業化した後、市場で生き残れるかの関門)」を経験します。電池のマーケットが立ち上がっていったのは1995年で、ちょうど携帯電話や米マイクロソフトの「Windows95」が発売された時期です。そこに高速通信の技術、GPS(全地球測位システム)など新しいテクノロジーが全てそろって、一斉にマーケットが動いた。80年代はマイクロソフトも田舎の会社で、僕も電池の研究を始めたばかり。後から考えると、15年間は電池にとって準備の期間だったということです。

 数年先の市場の動きは、論理的に説明できるわけではない。だけど、時代が来るような予兆は感じていましたね。(なかなか売れないという)葛藤はあっても、数年間は我慢しようという気持ちでいました。

95年は「IT革命」でしたけれど、今は吉野さんがおっしゃる「ET(Energy & Environment Technology)革命」の波が来ています。

吉野氏:電池産業は韓国、中国へ移っているというのは事実としてあります。先行していた日本の電池産業が衰退していった理由は単純明快です。いわゆるガラケーやラップトップパソコンはかつて日本が世界を制覇していたのに、(製造が)韓国や中国に移っていった。当然それらに使う電池は日本で作るよりも、韓国や中国で作った方がいいっていうのはありますよね。

 ただし電池に使われている材料について日本の優位性はまだあると思う。技術革新が続いていく限り、材料革新も当然続く。日本の自動車産業が世界で優位性を持っている限りは電池の競争力も維持できるのではないでしょうか。基本的には半導体や液晶と同じパターンですね。自動車産業が全滅するような状況だったら、電池もわざわざ日本で作る必要がなくなってくる。これからがまさに勝負どころでしょう。

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