大阪府堺市にある金剛組の関西加工センター(写真=大亀京助)
大阪府堺市にある金剛組の関西加工センター(写真=大亀京助)

技能と運営の両面に強さがあった

 歩んできた道のりを踏まえると、金剛組が長く事業を続けられてきたいくつかの理由が浮かぶ。長寿企業の調査・研究をしている静岡文化芸術大学の曽根秀一准教授は「大きいのが四天王寺の存在だが、もちろんそれだけではない。技能と運営の両面の理由が考えられる」と指摘する。

 技能面で大きいのは職人集団の存在だ。社寺建築を手掛ける社外の専属の宮大工は技能組織としていくつもの組に分かれている。戦後間もなくは4組だったが、現在は8組ある。複数の職人集団を持つことによって組同士に競争意識が働き、技術が高まった面がある。曽根准教授は「長くこうした形を続けてきたことがコアコンピタンス(競争力の源泉)になっている」と指摘する。一方で8組は作業現場では一緒になるため、技術交流は自然と進んできた。

 祖父も父も金剛組の仕事をしてきた人もいて、それぞれが金剛組と強い関係で結ばれている。基本的に、8組の棟梁はお互いに職人を応援に出したり受け入れたりしながら、金剛組の仕事を行っている。

8組の1つ、木内組をまとめる宮大工の棟梁、木内繁男氏(写真=大亀京助)
8組の1つ、木内組をまとめる宮大工の棟梁、木内繁男氏(写真=大亀京助)

 運営面では必ずしも直系のファミリーにこだわらなかったという特徴が挙げられる。江戸時代になると、大阪にはほかにも社寺建築を手掛ける有力な大工の集団があり、金剛組も仕事を侵食されかねなかった。大工としての実力と同時に人の上に立つリーダーとしての資質が求められ、それぞれの時代に合った後継者を選ぶ必要があった。

 後継者としてふさわしくない場合は長男であっても外してきたことが江戸時代の資料などから分かっている。過去にはいったん棟梁を引き継いだものの、仕事に身が入らなかったために名前を削除されるケースもあったという。婿養子をむかえることもあるほか、本家と分家がお互いに支え合う時期もあった。娘婿だった39代目も「後継者は長子相続ではなくて実力で選んできた」といつも話していた。

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