日本は創業100年以上の企業が多くあり、世界一の長寿企業大国として知られる。その中には創業1000年を超えると伝わる企業が少数だが存在している。コロナ禍で規模の小さい企業はこれまで以上に事業の継続性が重要になる。1000年以上続いてきたという背景や歩み、最近の取り組みなどから事業継続の条件や業歴を語る意味を探る。登場する企業の創業年などには諸説ある。
全国の長寿企業を調査する日本経済大学の後藤俊夫特任教授が「日本最古の企業だ」と認定しているのが大阪市で社寺建築を手がける金剛組だ。578年の創業で1400年以上の歴史を持つ。飛鳥時代に社寺建築に携わる集団が存在したことが日本書紀に記述されており、聖徳太子ゆかりの四天王寺にも口伝があることなどから、帝国データバンクや東京商工リサーチの調査でも日本で一番古い会社とされる。

聖徳太子が初代を招く
飛鳥時代から、現代までの歴史をひもといてみよう。金剛組によると、578年に聖徳太子の命を受けて、朝鮮半島の百済から3人の工匠が日本に招かれ、その1人が初代の金剛重光だった。招かれた工匠たちは官寺として計画された四天王寺の建立に携わった。完成後も金剛組の初代はこの地にとどまり、「正大工」として寺を守り続けた。四天王寺では奈良時代に講堂などの建設も行われた。
戦国期の1576年になると、四天王寺は織田信長と石山本願寺の戦いに巻き込まれ、伽藍(がらん)全体が焼失。天下を統一した豊臣秀吉の下、1597年に四天王寺の支院に多宝塔が再建された。この多宝塔の雷よけの銅板には、金剛組に連なる総棟梁(とうりょう)として金剛匠の名が残されている。1614年の大坂冬の陣で四天王寺が焼失すると、江戸幕府は四天王寺を再建。金剛家の25代目の是則が伽藍の再建を命じられたという。
江戸時代までの金剛家は四天王寺のお抱えの宮大工であり毎年、定まった扶持(ふち)米を得ていた。しかし、明治に入ると1868年に神仏分離令が出されたことなどで、四天王寺が寺領を失い、事態が一変する。金剛組は定まった扶持米を失い、他の寺社の仕事にも進出することになった。
昭和に入って棟梁を務めた37代目の治一は職人としての仕事へのこだわりが強く、営業活動が苦手であったとされる。経営は苦しくなり、1932年に治一は祖先にわびて先祖代々の墓前で自ら命を絶った。窮地に妻のよしえが初の女性棟梁となり、38代目を継いだ。34年には室戸台風で四天王寺五重塔が倒壊。金剛組はその再建を担いながら事業を維持した。第2次大戦中は企業整備令によって整理対象の危機となったが、軍事用の木箱を製造するなどしながら命脈を保った。
戦後の1955年に株式会社に転換した。戦後復興にあたって、防火・防災などの観点から社寺は鉄筋コンクリート工法のニーズが高まり、金剛組はいち早くコンクリートで木造風に見せる建築工法の開発を進めた。
だが、時代の流れには乗り切れず、経営は徐々に苦しくなっていく。39代目の下、1980年に埼玉県に拠点を開き、関東エリアにも進出した。加工センターも開設し、関東で本格的な木材加工を始めている。しかし、競合が多く、知名度を上げるために厳しい条件で受注することも多かったという。
全社的に規模の拡大を急ぎ、一般建築にも参入した。外部の設計事務所と組み入札に参加し、マンションなどにも取り組み始めた。しかし、ゼネコンとの競争では採算の厳しい工事が多く、多額の借り入れで資金繰りが悪化。倒産寸前となった。
サポートに乗り出したのが、同じく大阪が地盤の高松建設だった。メインバンクが同じだったこともあり、「歴史や技術は国の宝であり、一度なくなると二度と元に戻すことはできない。地元の会社として見すごすことはできない。金剛組をつぶしたら大阪の恥や。古来の建築技法を伝承したい」と申し出た。
2006年に高松建設が設立した新会社に事業を譲渡し、金剛組は継続された。1400年以上培った技術、従業員、宮大工の組織が引き継がれた。2008年には親会社の持ち株会社化に伴い高松コンストラクショングループ(CG)の一員となった。信用度は上がり、平成の期間に五重塔で9基ほどあった国内の新築工事のうち、3基を受注している。総合建設業の許可を持つが、高松建設の傘下に入ってからは原点回帰し、社寺の建築や国宝、重要文化財の修理などに専念している。
木造とコンクリートの両方を手がけるが、最近は発注側の木造志向が強まっている。コンクリートは木造に比べると耐用年数が短く、耐震基準が変わると使い続けるのが難しくなることもある。一方、木造は最古の木造建築である法隆寺が1400年以上経過しているほか、定期的な修理や大改修により500年以上経過している木造建築も国内に多くある。コンクリートに比べると火災などに弱いが、防火対策に取り組めば長持ちしやすい。
Powered by リゾーム?