雄二氏はファミリーの方針で小学校から地元を離れて甲府に出た。大学は東京で学んだ雄二氏は学生時代、友人から「遊びに行きたい」と言われた。建物はヒノキの1枚板を使うなどこだわっていたが、山奥の自炊の宿だった家業に誇りが持てなかった雄二氏は友人の依頼を断った。それでもやがて「長い歴史を持つし、継いでみようか」と考えるようになり、家業に加わった。そして「山梨で、いや日本で有数の旅館をつくりたい」と思った。
1975年に雄二氏は52代として経営を引き継いだ。当時の慶雲館は全国的な知名度はなかったが、温泉の魅力などから地元では知られ、年間6万人ほどが訪れていた。それでも、湯治客は全国的に減少傾向にあり、雄二氏は将来を見越して観光旅館への参入を決断。1億2000万円を投じて新たな建物をつくり、湯治宿と並行して食事付きの温泉旅館の経営に乗り出した。
湯治場から温泉旅館に転換

慶雲館はその直後、厳しい自然に翻弄される。1982年に台風によって建物の一部が流出。大きな被害に見舞われ、周囲からは「慶雲館は終わった」とまで言われた。それでも雄二氏はこれを一つの契機として湯治場から観光旅館への転換を加速するため金融機関と交渉。資金を調達すると、約5億円を投じて83年に新たに東館をつくった。86年には既存施設の改築を行った。
ハード面を整備すると同時にソフト面も見直しを進めた。それまで慶雲館では地元の女性が「花嫁修業のために」と働くことが多かったが、サービスに力を入れるため、雄二氏は地元以外からも従業員を採用するようになった。
川野氏が慶雲館に入ったのはそんな時期だった。宮崎県出身の川野氏は雄二氏がオーナーを務める東京の洋食レストランで働き、雄二氏に誘われて1984年に慶雲館にきた。
雄二氏の下、川野氏は温泉の掃除から料理、フロントまでさまざまな仕事をこなした。慶雲館は山中の宿のため、施設の修理などで業者を呼ぶには時間がかかり、畳表や壁紙の張り替え、館内の配管の修理なども自力で取り組んだ。「とにかく怒られた」と振り返る川野氏は、行き違いから雄二氏の誤解を招くこともあったが、「それならば自分がどうしても慶雲館に必要とされるようになろうと思った」と振り返る。
1997年には現在の場所に約13億円かけて新館が完成。湯治宿という役割を終えて観光旅館一本になった。創業1300年にあたる2005年には新たな源泉を掘削。湯量が毎分1630リットル、温度も52度と恵まれ、従来の1300年以上前からの源泉も生かすことで、全室に加水、加温のない源泉掛け流しの温泉を設置。施設、サービスの両面からの取り組みで新たな宿泊客を開拓した。
11年にギネス世界記録として認定され知名度が上昇すると、「世界最古の温泉宿」として海外でも知られるようになった。かつての小さな湯治場は、成田空港から直接タクシーで海外の富裕層が来ることもある観光旅館に変わった。
ここでもまた、時代の荒波が容赦なく押し寄せる。
もともと借り入れが多かったところに11年の東日本大震災で観光自粛ムードが広がり、それまでの投資の負担が利益を圧迫するようになった。しかも大雪の影響で稼働日数が大幅に縮小する年が重なり、経営の足を引っ張った。
雄二氏はこのとき再び大きな決断をする。それは経営を初めて非ファミリーの川野氏に引き継ぐことだった。
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