2000年代に事業の取捨選択を決断しきれなかった日立製作所と、強い事業に経営資源を集中投下してきた東芝(改革の優等生だった東芝、失われた20年を過ごした日立)。日立の目を覚まさせたのは当時の製造業で過去最大となる7873億円の最終赤字。新しい経営体制の下、会社が進むべき方向を見定めようと動き出した。リーマン・ショック後の赤字でも「強い専門企業の集まり」という意思を貫こうとした東芝は、その無理が不正会計として表面化し、その後の原子力発電所事業の巨額損失につながる。ともに消費者向け製品などの多数の事業を切り離してきた2社(「今は何の会社なの?」 あなたの知る日立・東芝はもういない)だが、その過程は「自主的」と「強制的」という対極にあった。

 「やっぱりリーマン・ショックの後ですかね。ひどい赤字になって、『これではいけないんだ』という経営層からの発信が増えた」。日立製作所のある中堅社員は約10年前のことをこう振り返る。「そこから会社の雰囲気がガラッと変わっていった」

 世界的な不況をもたらしたリーマン・ショックで、日立も大きな影響を受けた。自動車や半導体、産業機械などの需要急減に伴い、関連事業の売り上げが激減。創業100周年を翌年に控えた2009年1月には、本業の悪化に加え、マイコンやシステムLSIを手掛ける共同出資会社のルネサステクノロジ(現ルネサスエレクトロニクス)の業績低迷や、人員削減や固定資産の減損損失を含む事業構造改革費用の計上などで最終損益が約7000億円の赤字になる見通しと公表(最終的に7873億円に拡大)。そのピンチで日立の将来を託されたのが、当時日立マクセル会長を務めていた川村隆氏だった。

 当時の川村氏は69歳。日立工場の工場長を経て1999年に副社長に就任したが、2003年から子会社に転じていた。キャリアの晩年に差し掛かろうとしていた人物を呼び戻す異例の人事だった。川村氏は「失われた20年」を過ごした日立を一気に変えるため、会長と社長を兼務することを条件に就任。翌年に社長の座を引き継ぐことになる中西宏明氏など5人の副社長とともに、日立が取るべき方策をスピーディーに決めていった。

 「社会イノベーション事業への傾斜を深める」。09年4月、就任会見に臨んだ川村氏はこう宣言した。社会インフラや産業機器とIT(情報技術)の融合による社会イノベーション事業を、グローバルに展開していく企業になるという意味だ。「総合電機」からの決別。今に至る日立製作所の方向性が固まったのはこのときだった。

日立プラントテクノロジーや日立ソフトウェアエンジニアリングなど上場5社を完全子会社にすると発表した川村隆氏(09年7月、写真:ロイター/アフロ)
日立プラントテクノロジーや日立ソフトウェアエンジニアリングなど上場5社を完全子会社にすると発表した川村隆氏(09年7月、写真:ロイター/アフロ)

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