重電や総合電機の雄として比較されてきた日立製作所と東芝(「今は何の会社なの?」 あなたの知る日立・東芝はもういない)。2000年ごろには日立と東芝の売上高の差が1.4倍程度まで縮まったが、両社が構造改革を進めた今は2.5倍程度まで広がっている。営業利益率で見ても、日立が5年以上も6~8%程度で推移しているのに対し、経営危機からの回復途上の東芝は20年3月期に3.8%まで戻したところだ。現時点では明暗が分かれている2社はどこで道をたがえたのか、2回に分けて振り返る。最初の転換点は90年代にあった。
「このままでよいのかと思いながらも居心地は悪くない組織にどっぷりつかって、日常業務を忙しくさばきながら、痛みを伴う改革を先送りする図式」。日立製作所で2009年、会長兼社長に就いた川村隆氏は、日立が09年3月期に7873億円の最終赤字を計上するまでに至った経緯をこう表現したことがある。
「まさに“失われた20年”だった」。1990年代~2000年代の日立をこう振り返る関係者は多い。日立の変調は90年代のバブル崩壊とともに訪れた。日本の高度成長期に、火力発電所のタービン、新幹線の車両や運転管理システムなど、電力や鉄道、通信といった国内のインフラ産業と共に成長してきた日立。「電力会社や鉄道会社などの特定の顧客の要望に応えること」(中畑英信執行役専務)に自社の価値を見いだし、安定した事業で稼いだ利益を家電や半導体などへの投資に振り向けて総合力を蓄えてきた。
日立が読み違えた時代の潮流
ところが、二つの誤算が90年代の日立の経営を追い詰める。まず、電力会社や鉄道会社、通信会社の民営化が本格化し、規制産業だった企業が激しい競争にさらされるようになったこと。安定した設備投資が見込めなくなり、グローバル化の進展で競争相手が海外勢にも広がり始めた。次に、中核事業に据えた半導体などの事業が自社の文化に合わなかったことだ。「10年ほどの長期スパンで事業をこなす重電のやり方では、半年で売上高が大きく変動する半導体の世界になじまなかった」と日立の元半導体技術者は話す。
それでも日立は総合電機の看板を下ろさなかった。98年に金井務社長(当時)は日経ビジネスのインタビューに「日本のインフラを作ってきた自負と責任があり、米国のように必要なくなったら捨ててしまう経営はなじまない」と語っている。その結果、99年3月期に日立の最終損益は3387億円の赤字に陥る。業績悪化に苦しむ半導体メモリーのDRAM事業のNECとの統合(後のエルピーダメモリ)をようやく決めたのはその年の11月だった。

異例のトップ人事で改革を先行させた東芝
「GE(米ゼネラル・エレクトリック)が10年かかった改革を1~2年でやり遂げよう」
東芝の西室泰三社長(当時)は99年の年頭あいさつでこう語り、進めてきた改革の手を緩めないことを社内外に宣言した。文系で半導体の営業部門出身だった西室氏を起用した96年の異例のトップ人事には、日立より先に経営環境が悪化していたという背景がある。
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