皆様はじめまして、ライター・研究者の林毅と申します。本コラムでは中国の経済や社会の動きのうち、今まであまり日本では取り上げられてこなかったような事象や事件を中心にご紹介していければと考えています。初回はコンテンツ輸出国である日本のビジネスとも縁が深い割にはあまり知られていない、世界最大の中国映画市場についてご紹介したいと思います。

 巨大な文化芸術産業でもある映画は、いつの時代もその国の社会や世相を映し出してきました。その様子を他の経済分野と対比しながら見ていくことを通して中国の今を考えてみたいと思います。


 アニメ映画「劇場版『鬼滅の刃』 無限列車編」の興行収入が11月15日までに233億円を突破し、コロナ禍によって大打撃を受けた映画業界にとって久しぶりにいいニュースになっている。その勢いは2019年の興収トップであった「天気の子(140.6億円)」を既に超え、ひょっとすると歴代のトップである「千と千尋の神隠し(308億円)」を抜くのではとさえいわれ始めている。

 世界的に見ても新型コロナの影響で映画館の営業どころではない地域も多い。大型グローバル作品の公開が来年以降に持ち越しになった影響もあって「鬼滅」は現時点で2020年興収世界ランキングの10位以内に入っている。だがその1位が誰もが知るハリウッド作品ではなく中国映画だということは、ほとんどの方がご存じないのではないだろうか。

爆速成長の中国映画市場は今年米国を抜く?

中国映画市場は9年間で6.4倍に
中国映画市場は9年間で6.4倍に
出所:興収については2010年のみ広電総局、その他は猫眼、GDPは世界銀行
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 中国が爆速で経済成長を果たし、2010年に日本を抜いてGDP世界第2位に躍り出たことは日経ビジネスの読者の皆様にとっては常識だろう。実は映画市場も経済と歩みを同じくするように急速に発展を続け、GDP同様世界2位の市場になっている。GDPではまだ米国の64%程度と大きく離れた2位に甘んじている中国だが、ここ1、2年特にヒット作が多かった映画では、新型コロナがなくても数年で米国市場を超えて世界一になることができるのではと予測されていた。

 その予測が今年、現実のものになりつつある。早い時期にコロナ禍の影響を受け5カ月にわたって映画館が閉鎖されていた中国では8月公開の「八佰(The Eight Hundred)」が興収31億元(約490億円)で前述のように興収世界1位となるなど徐々に客足が戻っている。推計方法によって意見は分かれるものの、こうした大型作品の助けもあって中国映画市場の今年の興収は史上初めて米国を追い抜くのではないかと報じられているのだ。

中国の映画市場は急拡大してきた(写真:アフロ)
中国の映画市場は急拡大してきた(写真:アフロ)

 いかに「中米貿易戦争」などと息巻いてみても、実際のところ中国が米国に勝てる分野はそう多くはない。経済規模だけではなく新型コロナのコントロールに成功し他国では落ち込む消費が回復していることを対外的にアピールできるという意味でも、中国にとってはいいニュースだろう。

愛国心をくすぐる内輪ノリのマーケティング

 旧日本軍を悪鬼のように描く抗日ドラマの存在などからなんとなく「中国にはよく分からないプロパガンダ映画が多そう」と思われる方が多いかもしれないが、全体から見たらごく少数だ。代わりに多いのが人々の愛国心や伝統文化を大切にする気持ちをくすぐるような作品。映画以外の分野でも古代王朝時代の文化や芸術を現代風にアレンジした衣服やデザインを取り入れることが若者の間で非常に流行しているように、自国に対するリスペクトを表現したいという大きな需要がそこにはある。

 例えば歴代興収トップのアクション映画「戦狼II(邦題:ウルフ・オブ・ウォー)」の監督・主演を務めた呉京(ウー・ジン)氏はインタビューで「中国人はみんな愛国心を表現できる場を求めており、私はただ昔のような『スローガンを掲げる』ようなやり方ではなく、表現方法を少し整えただけにすぎない」と述べている。地域ごとに文化も生活様式もまったく違う中国市場で大ヒットを出したいと思ったときに、数少ない共通点である愛国や伝統文化への誇りといったテーマを選ぶことは、マスのニーズを満たす一種のマーケティング戦略なのだ。

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