(写真:AP/アフロ)

 3月30日の夕方。上海市内にあるへネス・アンド・マウリッツ(H&M)店舗をのぞくと、商品をながめている顧客は数人しかいなかった。

 欧州連合(EU)や米国、カナダは3月下旬、新疆ウイグル自治区の少数民族ウイグル族への不当な扱いが人権侵害に当たるとして、中国政府当局者らへの制裁を発動した。これに中国は猛反発し、報復制裁を発表。そして、欧州企業のH&Mが昨年9月に新疆綿を使わないと宣言したことが今になって蒸し返され、不買運動が広がった。

 上海在住の知人は「ナイキのスニーカーは今は履きたくない」と言う。H&Mと同様の方針を明らかにしている米ナイキ、独アディダス、英バーバリーなどにも矛先は向いており、広告塔となってきた中国の芸能人による契約解除が相次いでいる。まだ本格的な不買運動にはつながっていないが、中国メディア上ではファーストリテイリングの名前も取り上げられており、いつ飛び火するか予断を許さない状況だ。中国共産党系メディアなどは、アシックスが3月25日にSNSに投稿した「新疆綿を支持する」という書き込みを29日になって削除したと伝えている。

 中国アリババ集団などのオンラインストアからH&Mの商品が姿を消したのはさもありなんといったところだが、百度地図などの地図アプリから店舗情報が消えたことには少々驚いた。

 実店舗は依然として存在するわけで、地図アプリの公益性を考えれば明らかに行き過ぎだからだ。ただ、アプリ提供企業にすれば、自らが非難の対象になる芽は摘みたいと考えたのだろう。

 中国のことわざに「殺鶏儆猴」という言葉がある。「鶏を殺して猿に見せる」、すなわち見せしめにするという意味だという。H&Mへの風当たりが最も強いのは、最初に中国共産党系メディアがH&Mの宣言を改めて大きく伝えた影響が大きい。ナイキやアディダスなどはECサイト上の店舗はまだ存続しており、地図アプリからも消されていない。近年関係が悪化しているが米国や英国、日本などと比較すると小国であるスウェーデンの企業は、見せしめの「鶏」としてちょうど良かったのだろうか。

 気になるのは、中国国内での愛国心の過度な高まりだ。「中国はもはや(アヘン戦争が始まった)1840年の中国ではない。西洋列強になすがままに侵略された時代は戻らない」。中国新疆ウイグル自治区政府の報道官は3月29日夜、記者会見でこう述べたという。

 181年前の出来事をいくら言いつのっても現在進行形で懸念が広がる人権侵害問題とは正対しておらず、第三者にはにわかに理解が難しい発言だ。ただ中国国内のムードは比較的的確に示しているといえる。言論統制が敷かれている中国国内においては、新疆ウイグル自治区における人権問題への懸念は乏しいのが実情だし、そもそも国民一人ひとりが考えたところでどうにかなる問題でもない。

 近現代史において日本を含む西洋列強から侵略された被害者としての意識が、中国政府の行動原理の根本にある。愛国教育を受けてきた多くの中国人にとっても、この問題について西側諸国が再び中国に言いがかりをつけているという文脈は一定以上の説得力を持っている。前米大統領のトランプ氏が無理筋とも思える論理で中国企業に制裁を加えてきたことも、このロジックの補強材料となっている。

 7月には中国共産党創立100年の祝賀行事を控える。少なくともそれまでは中国外交の強硬姿勢が変わることは期待できないだろう。

 人権を守ることはビジネス以前の大前提だ。その大前提を貫こうとする中国進出企業にとっては大変な重圧がかかる局面となっている。中国の経済力が増している今だからこそ、日本政府には毅然として企業を守る姿勢を見せてほしいと思う。

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