中国を胡耀邦が率いていた時代、日中は蜜月関係にあった(写真:AP/アフロ)
中国を胡耀邦が率いていた時代、日中は蜜月関係にあった(写真:AP/アフロ)

9月29日、日本と中国は国交正常化50年を迎える。この50年の間に2つの蜜月期があった。これらをもたらした要因は何だったのか。再現することはできるのか。そして中国経済の将来をいかに展望するか。中国現代経済に詳しい、神戸大学の梶谷懐教授に聞く。

(聞き手:森 永輔)

1972年に日本と中国が国交を回復してから50年。この間、関係が良好なときもあれば、悪いときもありました。良好だったときの条件を再び整えることができれば、今の悪化した関係を改善できるのではないでしょうか。その条件について考えていきたいと思います。

過去に2度あった日中蜜月

梶谷懐・神戸大学教授(以下、梶谷氏):この50年の日中関係を振り返ると、政治と経済の両面で良好な関係を築けていたのは、正常化の後の70年代と80年代でした。

梶谷懐(かじたに・かい)
梶谷懐(かじたに・かい)
神戸大学教授。専門は現代中国経済論。1970年生まれ。94年に神戸大学卒、2001年に神戸大学大学院経済学研究科博士課程修了。経済学博士。神戸学院大学准教授などをへて14年から現職。近著に『幸福な監視国家・中国』『中国経済講義』『日本と中国経済』など(写真:大亀京助)

 正常化の後の70年代の蜜月は、中国と経済関係を築くことに強い思い入れを抱く人々が日本の財界トップにおり、彼らがトップダウンで取引案件を進めていました。中国側も、経済の近代化を進めるのに日本の資本と技術を必要としており、両国の思惑がかみ合っていたと言えます。

 貿易は、日本からプラントを輸出、代わりに中国から石油や鉄鉱石といった資源を輸入する形が主体でした。こうした取引の代表例が、山崎豊子氏の小説『大地の子』に登場する上海宝山製鉄所の建設です。

稲山嘉寛氏が率いる新日本製鉄(当時、現日本製鉄)が大きな役割を果たしています。同氏はこの時期、対中交流と対中ビジネスの発展を図る日中経済協会の会長も務めていました。

梶谷氏:この良い関係は、78年の日中平和友好条約調印、79年の対中ODA(政府開発援助)開始(第1次円借款)へと続きます。

 ただし、この頃の日中関係は蜜月であったものの、改革開放政策が始まる前で中国の市場経済化が進んでおらず貿易の規模は大きくはありませんでした。

 中国が78年に改革開放政策を始め、市場経済化が本格化したのは80年代です。都市では、市場価格が適用される範囲が広がりました。輸出中心の工業化も進んだ。深圳をはじめとする経済特区に中国企業が進出していきました。

 この頃の日本企業の主役は、財界を構成する重厚長大企業から、一般の製造業に交代します。アパレルや雑貨など労働集約的な産業の中小企業が、中国の安価な労働力を求めて、縫製などを中国企業に委託するようになりました。

これが第2の蜜月の姿だったのですね。

梶谷氏:そうです。政治面では、中曽根康弘首相(当時)と胡耀邦総書記(同)が良好な関係を築きました。83年には胡総書記が訪日、84年には中曽根首相が訪中しています。

天安門事件後長く続いた「政冷経熱」

 こうした日中蜜月の変曲点となったのは89年です。胡総書記が死去。それが天安門事件の発火点となりました。中国政府が武力をもって民主派を弾圧する光景は、日本人の対中イメージを大きく悪化させました。それまで「親しみを感じる」との回答が約70%でしたが、50%強に急落。以降、日中関係は悪化の一途をたどります。

 90年代の後半から2010年ごろまでは、いわゆる政冷経熱と呼ばれる時代です。中国経済の拡大とともに日中経済関係は深まりました。日本は中国がWTO(世界貿易機関)に加入するのを支援し、01年に実現しています。

 WTO加盟と並行して中国は重工業化を推進。日中貿易は、日本から中国に工業製品を輸出し、中国からも工業製品を輸入する形に変わっていきました。ただし、この関係は補完的なすみ分けだったと言えます。日本から輸出するのは主に部品。それらを、中国企業が安い労働力を用いて完成品に組み立て、欧米市場に輸出する――という流れでした。中国の工業製品輸出が拡大すれば、日本企業が潤う関係だったのです。

 他方、政治と国民感情の面では関係が冷えていきました。日本人が中国に対して抱くイメージは1995年、「親しみを感じない」が「感じる」を初めて逆転しています。天安門事件後、江沢民政権が愛国主義教育を展開。これに影響を受けた中国の若者がナショナリズムに基づいて戦争の記憶を捉え直し、対日批判を高めていきました。2005年に、過激な反日暴動が起きたのは記憶に新しいところです。

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