
ロシアによるウクライナ侵攻が続いている。西側諸国は経済制裁を科し、ロシアの侵攻を止めたい意向だが、その効果のほどは明らかでない。実は、満州事変から日米開戦に至る過程で、当時の日本に対する経済制裁が企画・実行された。これらは日本軍の行動をとどめることはできなかった。それはなぜか。経済制裁の歴史を、波多野澄雄・筑波大学名誉教授に聞く。
(聞き手:森 永輔)
ロシアによるウクライナ侵攻の終わりが見えない状況です。2月24日から今日まで、この侵攻劇の軍事面・人道面に加えて経済面に人々の目が向けられてきました。経済面の要素の1つに経済制裁があります。今日は、波多野さんの専門である昭和戦史を振り返るとともに、経済制裁が効果を持ったのかどうか伺います。
波多野澄雄・筑波大学名誉教授(以下、波多野):日本が満州事変を起こして以降、日本に対する経済制裁が何度か試みられました。しかし、日本の大陸進出の方針を変えさせる大きな効果は上げられませんでした。

満州事変は経済制裁ならず、「極東に関わる余裕はない」
日本が、国際連盟による経済制裁の対象に最初になりかけたのは1931年9月、満州事変*の開始に対してでした。中国が国際連盟に日本の非を訴え出たのがきっかけです。国際連盟は制裁発動を検討しましたが、結局、発動には至りませんでした。
理由は大きく2つあります。1つは国際連盟の常任理事国だった英国とフランスが日本に対して宥和政策を取っていたこと。1929年に始まった世界恐慌のダメージがいまだ癒えず、いずれの国も国内の立て直しで手いっぱいの時期です。英仏は遠く離れた極東の問題に積極的に関わりたくはありませんでした。
国際連盟の常任理事国も、現在の国際連合の常任理事国と同様に拒否権を持っていたのですか。
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