鍵のない状態をどう克服したのですか。
遠藤:木の扉でしたので、体当たりして扉を壊そうという案を検討しました。
しかし、結局は偶然に救われました。まず、秘書の家に電話が通じました。多くの電話が通じない中で幸運でした。鍵のありかを聞くと、机の引き出しに鍵をかけてしまってあると言います。そこで秘書の机に向かうと、机は壊れ、幸いなことに、鍵がかかっていたはずの引き出しが飛び出していて、鍵を手にすることができました。
開店に至る一連の作業の中で痛感したのは、マニュアルの整備とそれに基づく訓練の重要性です。日銀ネットにアクセスできなかったときに、市中銀行とのお金のやりとりを手作業でいかに処理するか――これはマニュアルに定められており、「ダウン訓練」も半年に1回程度実施しています。
阪神大震災に臨んでマニュアルの内容は頭に入っていたのですか。
遠藤:はい。日銀は非常に分厚い災害対策マニュアルを整備しています。日銀は1882年(明治15年)の業務開始以来、さまざまな危機や災害を経験してきました。先の大戦では空襲や原爆投下も――。そして、この災害対策マニュアルをその都度書き換え、洗練してきました。これを解説する研修も開かれます。
私はマニュアルのエッセンスをまとめた「黄表紙」と呼ばれる冊子を常にかばんに入れて持ち歩き、時に開いて読んでいました。
それは、遠藤さんが個人的に重視していたのですか。
遠藤:それもあります。私は神戸支店が2度目の支店長だったので、現場の指揮官として重視しました。日銀自体も「黄表紙は肌身離さず持ち歩くこと」と推奨しています。組織として力も入れていました。
よくこんな話を耳にします。「災害時にはマニュアル外のことがたくさん起こる。だからマニュアルなんて意味がない」。私は、とんでもない話だと思います。むしろ反対です。マニュアルがあるから、目の前で起きていることがマニュアルで対応できることなのか、そうでないことなのか、すぐに判断がつきます。マニュアルで対応できることならば、マニュアル通りに動けばよい。そのためには日ごろの訓練が重要ですが。そして、マニュアルに載っていないことは現場の指揮官である私が判断します。即断即決を求められる現場で、この切り分けを短時間で行うことには非常に重要な意義があります。
支店長室の鍵について、当時のマニュアルには記されておりませんでした。
3つの異例の措置を最前線で指揮
9時までに開店の準備を整えた遠藤さんは、3つの異例の措置を指揮しました。①金融特別措置、②市中金融機関への店舗貸し、③手形交換の見切り再開です。まず金融特別措置はどんなものですか。
遠藤:通帳や印鑑がなくても本人確認ができれば預金をおろせるようにする措置です。災害対策基本法が定めるもので、大災害に臨んで日本銀行の支店長と大蔵省(当時、現財務省)の財務局長が必要性を判断し、両者が連署する文書を作って発動します。
このときは、塩屋公男・神戸財務事務所長(編集部注:財務局長が不在のときは財務事務所長が代行する。近畿財務局長は大阪)がパートナーでした。同氏は、地震の揺れのため左腕に大きな裂傷を負っていました。それでも自らの役割を果たすべく日銀神戸支店を訪れ、文書をつくりました。
市中金融機関に配布する通知文は、公文書ながら、塩屋氏の印は押されていません。財務事務所が炎上する悲運に遭ったため、赤鉛筆によるサインで印鑑に代えました。恐らく前代未聞のことだったと思います。
日銀が金融特別措置を発動しても、市中銀行の店舗が開いていなければ、被災者にお金は渡りません。そこで、2つ目の措置として、店舗を失った18の市中金融機関の臨時窓口を日銀神戸支店内に開設できるようにしました。
私のところには、市中金融機関の現場の支店長から「店舗がないんだ」という悲鳴がもたらされていました。東京本店の営業局にも同様の事情説明が、市中金融機関の本部から寄せられていたそうです。これを受け、オール日銀で取り組みました。
1945年に広島に原爆が投下された直後に日銀広島支店が実施して以来、2度しかない異例の措置でした。
危機のときには、混乱が生じるものです。このとき「神戸の遠藤支店長は店舗貸しに後ろ向きだ」といううわさが日銀内で広まりました。実はこのとき、支店の職員の中には店舗貸しに懸念を示す者もいました。「職員は疲労困憊(こんぱい)。水もない。警備も手薄」というのが理由です。私は「解決策を考えるからちょっと待て」と言いました。この発言が誤って広まったのでした。危機は、こうした余計な負荷も生み出します。こうしたことに貴重なエネルギーを浪費しないよう、冷静さを保つ必要を痛感しました。
水の問題は兵庫県庁の協力を得て、警備の要員は兵庫県警察と協議して確保し、店舗貸しを実現しました。
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