1999年に仏ルノーに救われ、ルノーから送り込まれたカルロス・ゴーン氏の指揮のもと、「世界一グループ」へと駆け上がった日産自動車。しかしこれまで見てきたように、上昇軌道は長続きせず、今は商品力の低下とブランドの毀損に苦しんでいる。そのすべてを見てきた元COO(最高執行責任者)の志賀俊之氏(INCJ会長)が過去への反省と日産の可能性について語った。
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INCJ会長。1953年生まれ。76年、大阪府立大学経済学部卒業、日産自動車入社。2000年常務執行役員、05年COO(最高執行責任者)。13年副会長。15年、産業革新機構会長、18年から現職。日産自動車CEO(最高経営責任者)だったカルロス・ゴーン氏のもと、経営改革を支えた。(写真は陶山勉、以下同)
志賀さんは仏ルノーとの資本提携の交渉役を担い、2005年から13年まで日産のCOOを務めました。飛ぶ鳥を落とす勢いで業績を高めていた日産がその後、厳しい状況に陥ってしまった原因はどこにあると考えますか。
志賀俊之・日産元COO(最高執行責任者、以下、志賀氏):反省として申し上げますが、今の苦境に陥るきっかけは営業利益率8%と世界シェア8%を高らかに宣言した11年度からの中期経営計画「日産パワー88」でした。16年の世界全需が9000万台と見込み、720万台の生産体制を見据えて工場をいっぱい造ってしまった。これで販売を伸ばさなければならないという制約がかかりました。
車種も増えました。ブラジルやインド、ロシアなどで工場を増強し、ダットサンも復活させた。今は69車種ありますが、日産の開発部門が1年で出せる新車は8~9車種です。単純計算で全車種を更新するには8年以上要します。戦線拡大によって、結果として車齢が長くなってしまい、競争力を落としてしまったのです。
2010年度の世界販売は418万台でした。急激な拡大への疑念はなかったのでしょうか。
志賀氏:日産は有事に強い会社で、リーマン・ショックからの立ち直りが早く、東日本大震災後も販売を伸ばしました。これはゴーン氏のマネジメントのすごさでもあるのですが、このときのイケイケムードが計画を作ってしまいました。
年50万台は伸ばせるという雰囲気が社内にあり、11年度は約480万台。6年でプラス300万台は可能だと考えたのです。各地域の16年度の計画を積み上げても、直近3年の勢いなら世界シェア8%はいけると。ゴーン氏の拡大戦略に乗っかったと彼だけが悪者になっていますが、会社がイケイケムードに染まった中での計画だったことを忘れてはなりません。
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