ワクチンはレインコート

:ワクチンは秋口に向けて接種が進んでいきますし、接種する人は防衛的に振る舞う可能性が高いと思うので、伝播性が高いデルタでもある程度は大丈夫だろうと思います。

 同時に、感染の深刻さが伝わり出すことで、社会の考え方も切り替わります。「さすがにこれはまずいだろう」と、おそらく抑制的行動が出てきて、最悪だった頃の英米のような状況までにはならないんじゃないかというのが、私の今のところの予測です。残念ながら、保証はできませんが。

―― ちょっと気になるのは「ワクチンを打ったから大丈夫」と考えて、遊びに出る人がすごく多そうなことなんですが。

:先日読んだNPR(ナショナル・パブリック・ラジオ・オブ・アメリカ)の記事でうまい例えがありました。「ワクチンは非常に性能のいいレインコートだ」というんですね。着ていれば雨が降っても安心、大雨が降っても大丈夫。ただ、あなたがサンダーストーム(雷雨)やハリケーンの中に行くと、濡れることもあります、びちょびちょになることもあります、布が破けることもあります、と。

―― なるほど。

:これはその通りで、リスクが少なくてウイルスへの曝露(ばくろ)が少ない状況であればしっかり守ってくれるんだけど、変異ウイルスは感染者からのウイルスの排出量が多くなっているといわれています。以前に比べると風雨が強まった、たくさんウイルスがいるような環境で、換気が悪く人の密度が高い中でおしゃべりをする、とか、リスクが高い行動を取ることは、レインコートを着て暴風雨に突っ込んでいくのと似ている、ということです。

 重症化予防効果はありますので、たとえ感染してもワクチンを打つ意味は十二分にあります。でも、雨が強い日は、お家にいるのが一番ですよね。当たり前ですが。

―― なるほど。その、雨が強い日と例えていただいた変異ウイルス、デルタの流行ですが、それこそ各論になっちゃいますけれどすこし伺ってもいいでしょうか。

:どうぞどうぞ。

「研究」といっても何通りもある

―― デルタはうつりやすい、重症化しやすい、ワクチンの効きが悪くなる、とさんざん報道されていますけれど、これは研究者のコミュニティで「従来型からこの程度、こう変わったよね」と、コンセンサスを得ている数字はあるのでしょうか。

:それはいい質問です。変異ウイルスについては「伝播性」「病毒性」「対ワクチン」が主なトピックとして研究されていますが、大きく分けて3つの分野の研究者が携わっています。

 まず、ウイルス学者。私はこれに近いです。何をやるかというと、試験管の中でウイルスを扱う。例えばワクチンでできる抗体を試験管の中のウイルスに投与して、どれくらい効果があるかを調べる。この分野は実験で仮説を検証しやすいので論文を書きやすいのですが、あくまで試験管の中、イン・ビトロ(in vitro)であって、人体にそのままの形で再現されることは、まあ、ほとんどありません。

―― ビトロ、ってもしかして。

:はい、ビードロ、ガラスの中、ってことですね。

―― なるほど……。

:だからといって意味がないということではもちろんありませんよ。ウイルスの特徴の傾向をつかむために重要です。しかし、人間に置き換えて考えられるものではありません。論文前のプレプリント(査読を経ていない準備稿)がどんどん出てくる分野でもあり、その数字が一人歩きすることがよくありますが、それらに一喜一憂する必要はありません。

 さて、次は臨床医です。実際に感染した患者さんを研究して、変異ウイルスの感染者が従来に比べてどんな症状が出ているかとかを診察し、統計を取って調べます。ヒトの症例ですから信用ができるデータといえます。ただし、背景因子の調整が必要です。

―― 背景因子?

:例えば、今はデルタが流行していますが、従来型が流行した時期に比べて、高齢者へのワクチン接種が進んでいる、とか、明らかに社会状況が変わっているわけです。もちろん、同じ感染者でも住んでいる地域や環境が違いますから、それが感染や発症、症状の進行に影響している可能性もあります。

―― そりゃそうですね。でも、完全に切り分けて、どこまでがデルタの影響なのかを理解するなんてこと、できるんでしょうか。

:はい、大変に難しいというのがその答になります。

―― 例えば、デルタは若年層にも感染する、という話が“常識”になりつつありますが、そうなるとこれも確実ではない?

:もちろん、伝播性が高くなったから若年層にもうつっている、という可能性はあります。一方で、高齢者へのワクチン接種が進んだ環境下だから若年層が目立つ(高齢層がワクチンを打っていなかったら、どうなっていたことか)こともあるでしょうし、感染を避けるための行動を取る人の比率が年代によってどう変化しているか、もあるでしょう。若年層に広がっていることは事実としても、全てデルタの伝播性上昇に起因する、とまで決めつけるのは行き過ぎかもしれない。個人的な感覚ではそう思います。

 そして、もうひとつの研究分野が疫学者ですね。数理モデリングというものも含まれます。地域や国単位の、大きな数字、ビッグデータを扱って流行を見ていきます。京都大学の西浦博先生がやっていらっしゃる。

―― ざっくりと大きく分けて3つの視点、というか分野から研究が進んでいて、それぞれに特徴というか、強みと弱みがある。

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