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―― モリナガさんの、イラストとネームで「説明」する本、例えば築地市場(『築地市場:絵でみる魚市場の一日』)とか東京スカイツリー(『図解絵本 東京スカイツリー』)を愛読してきた私ですが、今回の『らんらんランドセル』のような絵本は、イラストと文字という素材こそ同じであれ、まったく違う考え方、読み方をするものなんだ、ということを知りました。

モリナガ・ヨウ(以下、モ):「情報」じゃないんですね。絵、そのもので伝えないと。
―― しかし、そもそもなぜ題材がランドセルなのか。そしてなぜモリナガさんだったのか。
モ:結構この企画は長く掛かったんですよね。
萩原由美・めくるむ代表取締役(以下、萩):これは3年前ぐらいから。もともと勤めていた児童書出版社のポプラ社で、モリナガさんとのお付き合いが始まって。
―― スカイツリーですね(記事は「スカイツリーで子供に見せよう、『オトナの仕事』」)。
モ:たしかもともとは、筆箱とか鉛筆とか、そんな子どもたちが必ず持っているものができるまでを絵本でやろうよ、みたいな話になって、「ランドセルなんかどうだろう」という。
萩:ランドセルになったのは、実は『ランドセルは海を越えて』という写真絵本を作ったことが背景にあるんです。これはクラレさんが20年近くやっている、アフガニスタンに使い終わったランドセルを送るという活動を紹介した絵本だったんですけど、それでご縁ができて。だったらランドセルもいいかもと言ってみたら、モリナガさんも、ああ、いいんじゃない、と言ってくださった。
モ:ランドセルは何となく見慣れた身近なものですが、絵本を描くために、実物が家に来たときのあの存在感のすごさ。ランドセル自体も僕らのころよりも一回り大きくなっていますからね。
―― そうなんですね。
萩:大きいですね。
モ:大きいんですよね。つやつやででかいのが部屋に来たときの、あの明るい感じ。物としての強さみたいな、ポジティブの固まりみたいな。
―― そ、そうですかね?
モ:ランドセルって、かならずしも楽しいとは限らない過去の記憶、例えば「小学校に入っていろいろなことがあって」とかが付随してくるんですけれども、新品のランドセルにはそれが一切ない。ポジティブだけの存在というのがね、新鮮でした。
こんな面倒なかばんは日本でしか作れ(ら)ない
―― 言われてみれば、モリナガさんの作風って、ちょっと苦みというか大人のペーソスがありました。
モ:スカイツリーの絵本に、それが建つ前のがらんとした場所の絵とかね。築地も盛り上がっているけど、これは全部滅びます、みたいな。わりとそういうところが私にはあるんですが、新品のランドセルはもう、まぶしいぐらいのポジティブさ。
―― ポジティブしかないと。
モ:ないという。実物の感動というのは大きかったですね、そして先ほど(前回参照)も話しましたけれど、つてを頼って集まってもらった子どもたちの中での、ランドセルの存在の強さも印象が強かったです。
―― たまたま昨日かな、Twitterを見ていたらランドセルの話をつぶやいている人がいて。「学習用具を入れたままのランドセルを放り投げて、どれくらい飛ばせるかを競う競技」というのをやっていたと。
モ:そういう、おばか男子が使っても6年間壊れない丈夫さも。
―― ポジティブさの背景にはあるかもしれません。この絵本で、ああ、ランドセルはそこまでして教科書を、学習用具を守っていたのかと、感動もしたしちょっと呆れました。
萩:こんな複雑で面倒くさいかばんは日本でしか作れないんですよ。海外に製造を出そうとしたこともあるけれど、やってくれるところがないそうです。ここまでやらなくても、という丁寧さで、壊れたらちゃんと修理する、というくらいのプライドで作っている。
―― こういう話をすると「ユーザーが求めていない過剰品質を追い求める日本」の話がぽっと脳内に出てきます。でも最近、あれはあれで正しかった部分もあると思うんですよ。ちょっと飛んでしまいますが、1980年代のぜいたくなシティポップが世界で再評価されている、とか、実は黄金期のラジカセは音がすごくよかった、とか。合理を抜けた先の過剰さに愛着を持つことが、我々の持ち味なのかもしれないな、と。ランドセルはその分重かったけど。
モ:帰ってきて玄関に置くとふっと背が伸びるみたいな感じですよね。
―― あったあった。これまた「学校に持っていく教材多過ぎ問題」が絡んできそうですが、先に行きましょう。この絵本は、文章もモリナガさんなんですか。
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