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(2020年5月18日の日経ビジネス電子版に掲載した記事の再掲載です。肩書などは掲載当時のものです)

日本電産会長CEO(最高経営責任者)の永守重信による京都先端科学大学の改革が2018年、本格的にスタートした。だが、それ以前の大学は志願者の確保にも苦労し、学生の学習意欲も高いとはいいにくい厳しい状況だった。ぶち当たった壁は厚い。破綻寸前の企業を買収しては立て直した永守は、得意の組織再生手法を生かしながら、専門科目の英語講義の導入や体育を必修化、教員に対する評価制度の採用など大胆な改革に取り組んだ。そして大学は変わり始めた。(敬称略)

■お知らせ
日本電産会長CEOで、京都先端科学大学(KUAS)を運営する学校法人永守学園の理事長を務める永守重信氏と、MS&ADインシュアランスグループホールディングス会長の柄澤康喜氏が、人づくりをテーマにオンラインで対談します。ぜひご視聴ください。
開催日:2020年11月16日(月)15:00~16:00
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 「こりゃあ大変だ」

 2017年4月、京都府亀岡市の京都学園大学(現・京都先端科学大学)亀岡キャンパスで行われた入学式に出席した浜田忠章は、その光景に思わず息をのんだ。浜田は、日本電産専務などを務めた後、大学を運営する学校法人・京都学園(現・永守学園)の非常勤理事になったばかり。私費を投じて大学改革に取り組む意志を示していた同社会長CEO(最高経営責任者)の永守重信から送り込まれての入学式出席だったが、驚いた。

 「式の間、新入生の半分くらいは居眠りしている。理事長や学長が挨拶をしていても後ろを振り向いておしゃべりする学生もいた」(浜田)。まるで“学級崩壊”のような状態。永守の大学改革は、そこから始まった。

 同大学は1969年4月に経済学部を創設して開学した。学園の源流は1925年3月設立の京都商業学校(現・京都学園高校)で、長く中学、高校のみだったが、高度成長の時代、大学大衆化の波に乗るかのように創設された。その後、法学部、経営学部、バイオ環境学部、人間文化学部などを2000年代初めまでに次々と設置し、拡大した。

 しかし、10年代に入る頃から若年人口の減少とともに志願者の確保に苦労し始め、15年には法、経済、経営学部を統合し、学生の集まりやすい京都市内に新たなキャンパスを設けて立て直しを図った。

負のスパイラルに陥っていた大学

 それでも学生からの人気や偏差値は思うように上がらない。勉学の意志がさほど強くない学生も減らないから、また人気が低迷する。永守が引き受けたのは、そんな苦境のまっただ中だった。

 普通なら、その状況から立て直す難度の高さに思わずひるむところだろう。ここで永守が取ったのは得意とする企業のM&A(合併・買収)で使ってきた経営手法だった。

 日本電産の成長の原動力となってきたのは、M&Aである。1990年代から2000年代にかけて経営が悪化し、破綻寸前になった企業を傘下に収め、次々と立て直してきた。そこで実行したのが、低迷の中ですさんだ社員の気持ちを前向きなものに変え、独自の低コストマインドを注入して一気に経営再建を果たすことだった。雇用には手をつけず、特別な新製品開発もない。既存の経営陣も変えず、日本電産から送り込む社員は数人だけ。そうしてほとんどの企業を1~2年で再生してみせた。

 ただし、今回は大学。それも利益のためではなく、大学教育の改革だからノウハウがすべて通じるとは限らない。半ばは従来の手法を使い、一部は変えている。これまでの方法を全く変えなかったのは、送り込む社員を少数にとどめること。そして、自身の考え方を徹底して注入することだった。

 浜田は日本電産から送り込まれたその少数の1人であり、「実質、大学に常勤となって、(永守の)考え方を教職員たちに話し続けた」という。柱は、英語と専門科目の教育を徹底し、社会に出て即戦力として働ける人材を育成する大学になること。そして、この時点では構想だったが、工学部を新設し、世界で日本が戦うために必要になる技術教育をする場をつくることだ。浜田はそれを広める先遣隊の役回りだった。