新型コロナウイルスの感染拡大により、先行きの不透明さや自粛という生活様式の変化から不安を抱える人が少なくない。仏教者は今の状況をどう捉えているのか。9年かけて1000日間歩く荒行「千日回峰行」や、食物や水を断ち眠らないまま堂にこもり、9日間真言を唱える「四無行」を成し遂げたことで知られる仙台・慈眼寺の大阿闍梨、塩沼亮潤氏に聞いた。

1968年生まれ。87年に奈良県の吉野山金峯山寺で出家得度。99年に金峯山寺1300年の歴史で2人目となる大峯千日回峰行満行。2000年に四無行満行。現在、仙台市の慈眼寺住職(写真=尾苗 清)
新型コロナウイルスの感染拡大によって、社会や経済の先行きが見えにくくなっています。
塩沼亮潤氏:大災害が起きたとしても、それはある意味では一瞬のこと。新型コロナウイルスのように、人間がコントロールできない状況というのは、しばらくなかったのではないでしょうか。現代の人類にとっては遭遇したことのない状況に置かれ、皆が非常に困惑しています。
「どうしてこうなったのか」を追究しても仕方がない、と私は思います。過ぎ去ったことに対してくよくよしてはいけない。むしろ、こうなってしまった以上、もう、前を向いて最善を尽くしていかなければいけない。
若いときの話をいくつかしたいと思います。私は19歳のとき、奈良の吉野山にある金峯山寺に入山して修行に入りました。そして20歳のとき、師匠は私に「おくらず迎えず応じて蔵ぜず」という荘子の言葉をプレゼントしてくれた。おくらずとは、過ぎ去ったことをくよくよしてはいけないこと。迎えずとは、これから来る未来をいろいろ思い悩まないこと。応じてとは、その時その時に応じること。蔵ぜず、とは心にしまい置かない、心にとどめ置かないことです。
23歳で千日回峰行に入り、毎日大自然の中、命がけで48kmの山道を歩きました。1000日間はやはり過酷な日々でした。この行をいかに達成させるかを考えると、先を読んで準備をして、より安全に行を全うしなければなりません。
私はそのために、想定される道具38種類を選んでカバンにつめていました。誰かに教わったわけではありません。経験の中で、「これが必要だ」と思ったものばかりでした。例えば消毒薬はケガをしなければムダになるかもしれないが、重くてもカバンに入れておく。いざというときに使えば、安全に行を遂行できます。
カバンの話から何が言いたいかと言えば、それは私たちが生きていくうえで、いろいろな選択肢を持っていないといけない、ということです。選択肢があるからこそ、必要な時に必要な選択ができる。これはつまり、師匠からプレゼントされた言葉で言えば、3番目の応じて、にあたります。もっと言うと「備えあれば憂いなし」という言葉がありますが、それと一緒です。その時その時に応じて対応して、自分が準備している選択肢の中からふさわしいものを選び、しかもそれを要所ごとに切り替えていかないといけない。今であれば新型コロナに直面している現実を受け止めながら、今できる最善を尽くすべきです。
もう1つ、付け加えるならば、リーダーたちは暗くならないことです。「自分の在職期間はことなかれで、終わればいい」と思っていた人もいたかもしれない。しかし、もう時代は変わりました。問題の先送り、前例の踏襲で生きていける時代から、即断即決、全責任は自分、という時代になりました。だからこそ、暗くならずに取り組んでほしい。
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