補償や罰則は社会の在り様に依存する

緊急事態宣言と罰則の関係について伺います。政府による指示・命令とその補償を整理するのに役立つ政治哲学上の考え方はありますか。リベラリズムと功利主義は、自由と全体の利益の関係を整理する道しるべになりました。

萱野:政府が事業者に休業要請や休業命令を出した場合、どこまで政府はその損失を補償すべきか、という問題ですね。その問題については、残念ながら一義的にどこまで補償すべきかを決定するような哲学原理があるわけではありません。実際それは、世論の動向やその社会の政治文化、政府の財政状況など、さまざまな要素によって決まってくるからです。

そうなのですね。功利主義の立場に立つと「外出自粛や休業の要請は社会全体の利益を実現するための手段なのだから、社会のメンバーは補償がなくても応じなければならない」と考えられるのかな、と思っていました。

萱野:功利主義がとりうる一つの考えとして、それはあり得ます。中国がとった政策がそれに該当するでしょう。中国政府は1100万人の人口を抱える武漢をロックダウンしましたが、そのための補償はしていません。

 ただ、功利主義からは、他の考えも成り立ちます。例えば、休業命令は感染拡大の防止という社会全体の利益のためになされるものだから、その損失は社会全体として補償すべきだ、という考えです。この場合は、「社会全体」という主体は存在しないので、現実には、徴税を通じて社会全体の富を管理することができるとされている国家が代わって補償することになります。

 他方、日本のように休業要請が命令ではなくあくまでも「要請」にとどまる場合でも、「補償すべきだ」という考えと「補償しなくてもよい」という考えのどちらも成り立ちます。日本政府の立場は今のところ「命令ではないので、補償はしない」というものですね。

 これに対して、「要請であっても、それは実質的には命令と変わらない以上、補償すべきだ」という考えも成り立ちます。例えば大阪府は休業要請に従わないパチンコ店を公表しました。多くの事業者はそこまでされれば社会的な圧力にもさらされることになるため休業要請には従わざるをえないでしょう。

 ただ、さらに言えば、「実質的には命令と変わらない要請であっても、それは社会の利益に資するものであり、最終的には各事業者のためにもなるものだから、補償しなくてもよい」という考えも成り立ちます。

外出自粛や休業の要請は「社会全体の利益を実現するための手段」という同じ理由で、「補償は必要ない」と「補償が必要」という正反対の結論が導き出せるのが面白いですね。「全体の利益のため犠牲を払うのは当然」と考えるのか、「全体の利益に貢献したのだから代償を払うべきだ」と考えるのか。

萱野:結局、どの考えが選ばれるかは、世論の動向やその社会の政治文化、政府の財政状況、そして事態そのものの深刻さ、などの複合的な要因によって決まらざるを得ません。

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