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政府が、新型コロナウイルス感染拡大を抑えるべく緊急事態宣言を発出した。外出自粛や休業の要請が国民の権利と自由を制限する点が注目される。政治哲学はこれをどう捉えるのか。新進気鋭の哲学者、萱野稔人・津田塾大学教授は「人類は個人の自由よりも集団として生き残ることを重視してきた」と指摘する。「生き残りの単位が国家になるのは必然的」(萱野氏)。

(聞き手 森 永輔)

(前編はこちら

萱野稔人(かやの・としひと) 哲学者。
津田塾大学教授。 1970年生まれ。パリ第10大学大学院哲学科博士課程修了。博士(哲学)。著書に『国家とはなにか』『新・現代思想講義――ナショナリズムは悪なのか』『リベラリズムの終わり――その限界と未来』など(写真:加藤 康)

危機への対応は功利主義や全体主義に基づく体制を敷く国の方が、リベラリズムに基づいて自由を重視する国より適しているのでしょうか。

萱野:自由と全体最適化は、前編でお話ししたように政治哲学が対象にしてきた2大テーマです。自由を重視するのがリベラリズムで、全体最適化を目指すのが功利主義です。両者のうち、どちらが正しいとか優れているとか言うことはできません。しかし、歴史を振り返るなら、人類が個人の自由よりも集団として生き残ることを重視してきたのは明らかです。

 かつて日本社会のいたるところで見られた「姥(うば)捨て」の習慣はその一例です。近代以前の、生産力の低い社会では、年老いて働けなくなった老人は集団にとって「穀潰し」のお荷物でした。そのため、食料をはじめとする資源が限られていた環境では、老人を山に捨てることで、元気な人に貴重な資源を集中させ、家族や村落共同体といった集団を生き残らせてきたのです。

 つまり、活用できる物的資源や人的資源を全体として最適化し、集団として生き残るというのが、人類のより根本的な行動形態なのです。言い換えるなら、リベラリズムよりも功利主義の方が人類にとっては根源的な思想だということです。

前編でお話しいただいた、緊急事態における行政の権限強化と民主主義の関係と軌を一にする話ですね。

萱野:そうなのです。人類の歴史から見ると、自由や権利というのは、いわば「ぜいたく品」です。生産力が増大し、社会が豊かで安全になったからこそ、人類は権利や自由を獲得することができました。近代という時代になってようやく人類社会で権利や自由が尊重されるようになったのはそのためです。もちろん、だからといって私は自由や権利を取るに足らないものだと言いたいのではありません。これは善しあしの問題ではなく、実態としてそうであったということです。

 女性の社会進出についても同様のことが言えます。かつて共同体の外で行う仕事というのは、例えば狩りや土木工事、遠隔地への物資の運送、戦争など、危険を伴うつらい仕事ばかりでした。女性が社会進出したくなるような仕事はほとんどなかったのです。しかし、時代が下り、社会が豊かになったことで、安全でおもしろい仕事がいろいろと生まれるようになり、ようやく女性が共同体の外で活躍できる余地も広がったのです。

 もちろん、だからといって私は女性の活躍に反対したいのではありません。まったく逆です。男女間の不公平を取り除き、女性が社会で活躍する可能性を広げるためには、それをうながす社会的条件に注目しなくてはならないということを指摘したいのです。

 この点から言えば、新型コロナウイルスの感染拡大によって、リベラルな雰囲気が社会から失われてしまうのは仕方のないことです。それを嘆いても何も生まれません。

 新型コロナウイルスの感染拡大は、人々の生命を危険にさらしただけでなく、経済活動を停滞させることで人々の豊かな生活をも切り崩しました。その結果、この社会は集団として生き残るために、人々の行動を制約し、社会的資源を全体として最適化する方向へと大きく舵(かじ)を切ったのです。政治哲学的に言えば、人々が生き残るために、リベラリズムが後退し、功利主義が前面に出てきたということです。

 今後リベラリズムが復活するためには、とにかく感染拡大を抑え込むことが必要です。リベラルな社会という「ぜいたく品」は人類にとって一度味わってしまうと、なかったことにはできないものです。ですので、時間はかかるでしょうが、新型コロナウイルスによる感染拡大が収束すれば、いずれそれが回復することは間違いありません。