政府が4月7日、新型コロナウイルス感染拡大を抑えるべく緊急事態宣言を発出した。外出自粛や休業の要請が国民の自由と権利を制限する点が注目される。政治哲学はこれをどう捉えるのか。韓国が進めた監視権力の行使が効果を発揮。「自由と権力は対立する」という古典的構図の見直しを促す可能性がある。

(聞き手 森 永輔)

政府が4月7日、「新型インフルエンザ等対策特別措置法」(以下、新型インフル特措法)に基づいて緊急事態宣言を発出しました。これに伴う外出自粛や休業の要請が国民の権利を制限する強い措置であるため注目されています。政治哲学の視点からこれをどう捉えるべきか、お伺いしていきます。

 まずは、リベラリズムの視点から。今回の緊急事態宣言による私権制限は、リベラリズムの視点から見て正当化しえるものでしょうか。

他人に迷惑や危害を加えない限り、他人にとって不愉快なものであっても、社会は各人の自由を制限してはならない

萱野:リベラリズムを体系化したのはジョン・スチュアート・ミルですね。彼の『自由論』はリベラリズムの古典と呼ばれています。

<span class="fontBold">萱野稔人(かやの・としひと) 哲学者。</span><br />津田塾大学教授。 1970年生まれ。パリ第10大学大学院哲学科博士課程修了。博士(哲学)。著書に『国家とはなにか』『新・現代思想講義――ナショナリズムは悪なのか』『リベラリズムの終わり――その限界と未来』など(写真:加藤 康)
萱野稔人(かやの・としひと) 哲学者。
津田塾大学教授。 1970年生まれ。パリ第10大学大学院哲学科博士課程修了。博士(哲学)。著書に『国家とはなにか』『新・現代思想講義――ナショナリズムは悪なのか』『リベラリズムの終わり――その限界と未来』など(写真:加藤 康)

 ミルは他人に迷惑や危害を及ぼさない限り各人の自由は尊重されるべきだと考えました。逆に言えば、他人に迷惑や危害を及ぼしてしまう場合、各人の自由が制限されるのはやむをえないということです。その観点から言えば、今回の緊急事態宣言による私権制限はリベラリズムによっても十分正当化されうるものです。

 外出自粛を例にしましょう。新型コロナウイルスの感染が拡大している現在の状況では、自由な外出そのものが感染を拡大させてしまいかねません。これは、リベラリズムの立場からしても「他人への危害」に該当します。リベラリズムは自由を重視しますが、その自由とはあくまでも「他人に迷惑や危害を与えない限り」という制限の下での自由です。

 もちろん、緊急事態宣言によって政府が各人の自由を制限することに対しては懸念もあるでしょう。しかしそれは過剰な懸念だと思います。今の日本社会は、政府が各人の自由を制限することで何か利益を得られるような社会構造にはなっていませんから。

屁理屈(へりくつ)であることを承知でうかがいます。外出は「迷惑や危害」に当たるでしょうか。感染者が外出すれば「迷惑や危害」に当たるのは理解できます。しかし、感染しているかどうか不明な人の外出を感染者の外出と同じにみなすことができるでしょうか。

萱野:各人が他人と接触する機会が増大すれば、それだけ感染が拡大しやすいことは疫学的にも立証されています。したがっていくら主観的には「自分は感染しない・感染させない」と思っていたとしても、やはりそれは感染拡大を促してしまうという点で「他人への危害」に該当してしまうと考えるべきでしょう。だからこそ3密を避けることが重視されているわけですよね。リベラリズムは各人の自由を重視しますが、決して各人の主観を重視するわけではありません。

功利主義の観点からはどうでしょう。功利主義は全体最適を目指す考え方です。

功利主義:全体的な利益を考慮して、それが最大になるよう行為すべき。

※功利主義ではこの利益を「効用(utility)」と呼ぶ。なので英語では「utilitarianism」。

萱野:功利主義は、英国の哲学者、ジェレミ・ベンサムが最初に体系化した哲学原理です。まさに公共的な利益を最大化することを目指す考えです。

 功利主義の視点から見ても今回の緊急事態宣言による自由の制限は正当化されうるものです。感染の拡大を抑えることは、まさに社会全体の利益になるからです。

 政治哲学の原理には、大きく捉えれば個人の自由を重視する原理(リベラリズム)と全体最適を目指す原理(功利主義)の2つしかありません。これらがぶつかるときもあれば、折り合うときもある。今回の緊急事態宣言による自由の制限は、両者が対立せずに折り合うケースと言えます。

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