ANAホールディングス(HD)は12月7日、傘下の全日本空輸(ANA)とANAウイングス(東京・大田)、エアージャパン(千葉県成田市)が客室乗務員の採用を再開すると発表した。ANAは2024年度入社の新卒と23年度入社の経験者を合わせて500人ほど採用する見通しだ。国の観光需要喚起策「全国旅行支援」の開始や水際対策の大幅緩和などを受け、足元では国内線を中心に需要が急回復しており、これに対応した措置だ。客室乗務員の採用は4年ぶりとなるが、この間、客室乗務員志望の学生はやるせない思いを抱いていたことだろう。そして、業務量が急減した社員たちの間でも様々な思いが交錯していた。
書籍『ANA 苦闘の1000日』(2022年9月26日発行)からANAグループの新型コロナウイルス禍での苦闘を描く連載の第8回。時は20年春──。全国の小中高校に一斉休校が要請され、人の移動がガクッと減った後のことだ。

コロナ禍の影響が日本でも顕在化し始めた20年3月以降、便数の減少や機材の小型化によって供給力を抑えてきたANA。すると今度は人材に余剰感が生まれる。4月に入り、ANAは日にちを指定して社員に休んでもらう「一時帰休」を本格化させた。休んだ日数分の給与を会社は負担せず、減った給与に相当する休業手当を、国の「雇用調整助成金」を一部原資にして支払うというものだ。国は4月から一定の条件の下、雇用調整助成金の助成率や支給上限額を引き上げていた。社員を休ませることで人件費負担を抑制する。本来は固定費であるはずの人件費を押し下げる苦肉の策だった。
ANA単体で1万7000人ほどいた社員のうち、機上でのおもてなしを担う客室乗務員は半分ほどを占めていた。その1人、横川広実は「仕事が減っていくことに対する不安感はかなり大きかった」と当時の心境を吐露する。
横川は鹿児島に住む祖父母に会うため、幼い頃から飛行機に乗る機会が多かった。乗り物酔いしやすい体質だったが、気分が悪くなっても機内では客室乗務員が優しく対応してくれた。そんな原体験から、将来の夢として客室乗務員を思い描くようになったという。
経営破綻のあおりで日本航空(JAL)が採用活動を実施しなかった12年春に客室乗務員としてANAに入社。最初は国内線の乗務で基礎を学んだ。「華やかなイメージを持っていたが、そんなことはない。体力勝負です」。保安業務や接客の知識・技術だけでなく、体力、そして経験も身に付け、3年目からは国際線でも活躍するようになった。ANAが国際線の就航都市を年々拡大する中、活躍の場はどんどん広がっていった。お気に入りの街は15年に初就航したベルギー・ブリュッセル。フライトの合間に街に出て食事やお茶を楽しむのが、忙しい日々の中のささやかな幸せだった。
そんな日々をコロナ禍が奪い去っていった。
それまでは1日3便ほどの国内線乗務をこなす日を4日続けた後に2連休を取得する「4勤2休」で働き、そのサイクルの合間に月2往復ほどの国際線乗務が入るのが通常だった。ところが、コロナ禍で運航便数が激減してから、客室乗務員は一時帰休の対象となった。1カ月にわずか4日の勤務、しかも1日の乗務は1往復だけという状況に置かれた。月の業務量が8分の1ほどに減った計算だ。横川も航空業界が様々なリスクに左右されやすい業界であることは認識していたが、これほどの惨状に見舞われるとは想像すらできていなかった。
とはいえ、この頃はANAHDも5月終息を想定していた。横川の周囲でもどこか楽観的な雰囲気は残っていた。コロナ禍はあくまで一時的なもので、数カ月もすればまたにぎわいを取り戻していくのではないか。そんな期待があったのだ。この10年間、事業規模の拡大に伴って人手不足が慢性化。忙しい日々がずっと続いていただけに、体を休めたり、趣味に使ったり、語学学習などの自己研さんに励んだりと、一時帰休を前向きに捉える人もいた。
思い起こした大震災
「この10年近くはどんどん運航便数も増えていって、にぎわう空港の様子しか見てこなかった」。ANA成田エアポートサービス・旅客サービス部の白井沙織は、普段の空港の姿と、コロナ禍で人がいなくなっていく空港の姿とのギャップに戸惑っていた。旅客サービス部とはその名の通り、空港のチェックインカウンターや搭乗口などで旅客の対応に当たる社員「グランドスタッフ」が所属する部署である。
10年入社の白井は成田空港国際線の担当一筋。空港から徐々に人が減る様子を見て最初に連想したのは、入社から約1年後に起きた東日本大震災だった。震災当日は空港が一時閉鎖され、地上交通が寸断されたターミナルは帰宅困難者であふれた。離着陸が再開された後は日本からの出国を希望する外国人向けの便の運航に奔走する。異常事態を目の前に、1年目の白井はただ立ち尽くすしかなかった。
ただ、その後の約10年間は、インバウンド需要の拡大で成田空港は年々にぎわいを増していった。その中で白井も順調に経験を積み、チーフとして部下の育成に携わったり、現場の責任者として業務に当たったりしてきた。そうした中で迎えたのが、入社以来2度目の異常事態と言えるコロナ禍だった。
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