SARSの再来か
「原因は不明だが、お年寄りの間で変な病気が流行しているらしい」
19年12月初旬、鶴川は医療関係者を夫に持つ武漢空港のグランドスタッフから、こんな話を耳にした。「新型インフルエンザか何かかな」。仲間内ではそんな認識で一致し、特に気に留めることもなかった。
次第に武漢の街がざわつき始める。「SARS(重症急性呼吸器症候群)の再来か」「いや、これは『謎の肺炎』だ」。12月下旬になると、武漢の医療関係者がSNS(交流サイト)などで発信した情報を端緒に、人々の間では「何か原因不明の病気が流行し始めている」とささやかれるようになってきた。
とはいえ、年末年始には武漢から日本へ観光に出かける人も多い。ANAが運航する成田と武漢を結ぶ便も連日、満席に近い状態が続く。日常生活も普段通りだ。中国当局は「新型肺炎の感染者が見つかった」と発表したものの、1月11日時点で国内の感染者は41人。国内報道では謎の病について「人から人への感染は確認されていない」など、影響は小さいことが強調されていた。
鶴川も特段、異変を感じることはなかった。何か先走って未知の病に対応しても当局ににらまれてしまうのではないかという漠然とした不安もあっただろう。
そんな中で始まったのが、街中での手当たり次第の検温だった。突然のことに、鶴川は状況をうまくのみ込めなかった。おそらく、話に聞いていた「謎の肺炎」のまん延を受けた対応なのだろう。そこまでは分かるが、いったいどれほどの深刻さなのかは分からない。まずは1月16日、空港所長として武漢空港内で働くスタッフにマスクの着用を指示した。
「いや、そんなことはしなくてもいい」。すぐに当局から横やりが入る。それが21日になると、今度は空港からの指示として、空港内ではマスクを着用することになった。当局もまた、情報統制の中で右往左往していた。
武漢から直接報告する体制へ
少し時計の針を巻き戻そう。20年1月初旬、東京都港区にあるANAHD本社。「現地で感染症が急速に広がっているようだ」。未知の疫病について日本ではまだほとんど報道されていない中で、中国からこんな報告を受けていた。
中国に10を超す就航地があるANAは、首都・北京に置いた「中国統括室」がその就航地を束ねる体制を取っている。鶴川など武漢支店の職員は、収集した情報を中国統括室経由で本社に報告していた。
ただ、武漢の街の風景が一変した15日以降は状況が目まぐるしく変わっていった。ANAHDは武漢支店から直接、本社に状況を報告するように情報伝達ルートを組み直した。
鶴川たちが報告したのは現地の感染者数といった基本データだけではない。最初の集団感染が発生したとされる華南海鮮卸売市場で仕入れた食材がパイロットや客室乗務員が滞在するホテルで提供されていないか、といった細かい情報まで収集し、逐一本社に報告していった。
その情報収集で役立ったのは、現地に進出している自動車メーカーなど日系企業のネットワークだった。多くの企業は現地採用の社員を多く抱えているほか、企業として契約している病院などもある。こうしたところから得られる情報が、現地に進出する企業が加盟する「武漢日本商工会」などを通じて鶴川たちの耳にも入り、ANAHD本社に伝わる。武漢には日本の総領事館がない。この独自リポートの意義は大きかった。
(文中敬称略。次回につづく)
有料会員限定記事を月3本まで閲覧できるなど、
有料会員の一部サービスを利用できます。
※こちらのページで日経ビジネス電子版の「有料会員」と「登録会員(無料)」の違いも紹介しています。
※有料登録手続きをしない限り、無料で一部サービスを利用し続けられます。
この記事はシリーズ「高尾泰朗の「激変 運輸の未来図」」に収容されています。WATCHすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。
Powered by リゾーム?