英国政府は10月19日、ロシア軍の情報機関、参謀本部情報総局(GRU)のサイバー部隊が東京五輪・パラリンピックの関係団体・個人を標的にしていたと発表した。これを受け、加藤勝信官房長官は20日の記者会見で「個別事案について申し上げるのは差し控えたい」と繰り返し、直接的な言及を避けた。

 英政府がロシアを名指しで非難したのに合わせて、米司法省はGRUのサイバー部隊に所属するハッカー6人を起訴したと発表。「五輪の妨害を試みるロシアを許さない」との姿勢を鮮明に打ち出した米英両政府とは対照的に、ロシアに狙われた当事者である日本政府は沈黙する。

米国で起訴されたロシア軍参謀本部情報総局(GRU)所属のハッカー6人。米連邦捜査局(FBI)の指名手配書から抜粋
米国で起訴されたロシア軍参謀本部情報総局(GRU)所属のハッカー6人。米連邦捜査局(FBI)の指名手配書から抜粋

 英政府によると2020年夏の五輪開催の延期が決定した3月より前に、GRUのサイバー部隊は主催団体や関係者、スポンサー、輸送関連の情報システムに対して、インターネットを通じて偵察活動を実施していたという。システムの全体像を把握した上で、弱点を突くサイバー攻撃によって、開催中に障害を発生させるなどの妨害を計画していたと見られる。

 また今回、英政府は、平昌五輪が開催された18年冬にもGRUが韓国などの関係団体へサイバー攻撃を仕掛けていたと断定した。組織的なドーピングに手を染めたロシアが、平昌と東京の両大会から排除されたことに反発し、報復を仕掛けている恐れがある。ラーブ英外相は、「五輪を狙うロシアの行動は、ひねくれており、見境がない。彼らを最も強い言葉で非難する」との声明を発表した。

「関心ある」などと無難な答弁に終始

 これに対して加藤官房長官は記者会見で英政府の発表について記者から何を問われても、「広くサイバー事案については、我が国において重大な関心を持って情報収集・分析に努めている」「個別事案についてはコメントを避けたいと思っているが、民主主義の基盤を揺るがしかねない悪意あるサイバー攻撃は看過できないと思っている」などと、回答は一般論に終始した。

 今回だけではない。サイバー攻撃を仕掛けてきた国家を日本政府が名指しで非難した事例はほぼ皆無と言っていい。20年に入ってからNECや三菱電機などが中国当局の関与が疑われるサイバー攻撃の被害に遭っていたことが相次いで発覚しても、攻撃者を特定して非難することはなかった。

 日本政府は自衛隊のサイバー防衛隊や、内閣サイバーセキュリティーセンター、警察のサイバー犯罪捜査部門を拡充するなどして、国を挙げて情報セキュリティー体制を強化してきたはずだった。それにもかかわらず、どの国家がサイバー攻撃を仕掛けてきているのか断定するための高度な調査能力を持ち合わせていないのかもしれない。

日本企業には厳しい内弁慶

 日本政府としてサイバー攻撃者を独自に特定できない以上、米英など友好国からの情報に頼らない限り、非難すべき国家がどこか分からない。米政府のように攻撃を実行したサイバー部隊の隊員まで特定し、起訴するなどということは夢のまた夢だ。加藤官房長官が記者会見で当たり障りのない一般論を繰り返した背景には、そんな心もとない事情があったのだろう。

 あるいは日本政府としてGRUが東京五輪を狙っていることを独自に把握しつつ、外交上の駆け引きからあえて言葉を濁した可能性もゼロではない。どんな理由にしろ、サイバー攻撃を仕掛けた国家を名指しで非難するという選択肢を日本政府はこれまで実質的に放棄してきた。

 一方でNECや三菱電機で被害が発覚すれば、政府関係者は「報告が遅い」などと不快感を示し、情報セキュリティーの強化を要請してきた。日本政府は国内企業にだけ強く出るのではなく、中国やロシアにサイバー攻撃を思いとどまらせるためにも、より強硬な姿勢で周辺国と対峙していいはずだ。

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