基礎的な知識や技術が伝わっていない
しかし、いざ連載を始めてみるとその考えは変わった。読者の反応から、「今の書店の現場では基礎的な知識や技術がきちんと教えられていないことが、だんだんと分かってきた」(矢部氏)。40年前の新米書店員が当たり前に教わったことが、今では書籍として出版するほどの価値がある情報になっているのだ。
矢部氏が書店の現場に入ったのは1980年のこと。大学を卒業後、芳林堂書店(東京・豊島)に入社し、池袋本店で理工書担当の書店員となった。本は好きだったが、書店は数ある就職先候補の一つにすぎなかったという。当時の芳林堂書店は人材も多く、分業制の中で陳列や発注の基礎を着実に身につけたが、矢部氏は同社を3年ほどで退社してしまう。「当時は、書店員は本を店に出して並べるだけの仕事だと思っていた。書店の仕事はもう分かったので、次は事務職をやろうと考えて辞めた」(矢部氏)
そんな考えで、自宅の近所に開業したばかりのパルコ新所沢店の事務職に応募したものの、矢部氏は結局、書店の世界に引き戻される。くしくも芳林堂書店時代の上司が、パルコ内に展開する書店チェーン、パルコブックセンターを手掛けていたのだ。矢部氏は元上司に引き抜かれ、パルコブックセンター新所沢店で働き始めた。
「パルコブックセンター新所沢店は新規店でもあり、規模も芳林堂書店と比べると小型だったので、担当する棚での陳列・発注以外にも様々な仕事をした。その中で書店の仕事の全体像が見えるようになると、がぜん面白くなってきた」(矢部氏)

1980年芳林堂書店入社、池袋本店の理工書担当として書店員をスタート。3年後、パルコ新所沢店新規開店の求人に応募してパルコブックセンターに転職、新所沢店、吉祥寺店を経て、93年渋谷店の開店から勤務。2000年、渋谷店店長のときにリブロと統合があり、リブロ池袋本店に異動。人文書・理工書、商品部、仕入れなどを担当しながら15年の閉店まで勤務。現在はトゥ・ディファクトで、ハイブリッド書店hontoのコンテンツ作成に携わる。写真左は本の雑誌社営業部の杉江由次氏(写真:加藤康)
当時の出版の市場規模は、96年のピークに向けて成長する最中にあった。入荷した本を素早く適切な場所に並べれば、その成否は売り上げとして返ってくる。日常業務の中で試行錯誤するうちに、並べ方や置き方、そのノウハウの教え方まで、本を売る技術が自然と身についたという。
入荷した本を見ただけで売れるかどうか分かった
90年代にアートやサブカルチャーの聖地として知られたパルコブックセンター渋谷店での仕事は、矢部氏にとっても印象深い。あくまで総合書店の構えは崩さず、売れていたサブカルの棚を格別増やしたりはしなかったが、「売り場を育てていたので、入荷した本を見ただけで売れるかどうか分かった」(矢部氏)という。当時の渋谷という街の特色や、著者やデザイナーの人脈を理解していくうちに、来店客がその店に求めるものを肌で感じられるようになったということだ。
矢部氏はそんな書店文化の最高潮に身を浸した後、ピークを過ぎた業界の変化も見つめてきた。2000年代に入ると、漫画や週刊誌の売り上げが徐々に落ちてきた。売り上げ減を補うために文具や雑貨を並べる店が増え、本は「それだけでは食えない商材」ともいわれるようになった。「以前の書店は街の文化施設のような役割を担い、一生『行きつけ』にできる場所だったと思う。それが必要なくなってきたのかもしれないと感じた」(矢部氏)
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