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 失意の中にありながらも彼が幸運だったのは、その悔しさを情熱に変えて働ける場所がすぐに得られたことだ。知己を頼ってさわや書店(盛岡市)の駅ビル内店舗「さわや書店フェザン店」の書店員となった田口氏は、その店から次々とベストセラーを生み出し始めた。

 必ずしも斬新な新手法を取り入れたからではない。来店客と言葉を交わし、担当する棚の品ぞろえを工夫し続け、「これを売る」と決めた本は熱量の高い自作のPOPやパネルを付けて展開する。そんな“基本”に徹底的に取り組んだ。目標は、どこで買っても内容は同じ本が、さわや書店フェザン店では別の本に見えるようにすることだ。

 小説家、百田尚樹氏の06年のデビュー作『永遠の0』(太田出版)も、田口氏が「売る」と決めた本の一つだ。単行本の刊行から1年間は同店でほとんど売り上げのなかった作品だが、田口氏らスタッフが店頭や地元のラジオ番組などで推薦すると、常連客から口コミで広がっていった。09年刊行の文庫版も含め、同作はさわや書店フェザン店だけで1万冊近くも売れたという。地方の一書店の、たった数人のスタッフがベストセラーのきっかけをつくったという事実は業界に衝撃を与え、出版社から販促などの相談がひっきりなしに舞い込むようになった。

道半ばに終わった「新しい外商」

 その後、さわや書店フェザン店の店長となった田口氏は「新しい外商」と呼ぶ店外での活動を拡大するようになる。書店の外商とは個人や事業所、官公庁、図書館などに本を配達して販売することを指すが、田口氏らが届けようとしたのは本そのものではなく本の情報だ。

 その一例がさわや書店主催の講演会やイベントだった。11年の東日本大震災以降、経済的にも社会的にも大きな打撃を受けた岩手県では、「2040年までに896の自治体が消滅の危機にひんする」と訴える『地方消滅』(増田寛也編著/中公新書)などの書籍が大きな反響を呼んでいた。地域の今後について学びたい、考えたいという潜在的なニーズが高まっていると察した田口氏らは、『地方消滅』への反論として書かれた『地方消滅の罠』(ちくま新書)の著者、山下祐介氏らを招いた講演会を15年に開催した。

 開催を告知するや否や申し込みが殺到し、上記の2冊はイベント後数カ月で、さわや書店フェザン店だけでも1000冊以上が売れた。地域の人々は本を通じて議論のきっかけをつかみ、出版社は地域社会とのつながりを得て、さわや書店にはチケット収入と本の売り上げが入る。本が媒介するコミュニティーの中に書店の存在意義と収益源を求めていくという戦略は上々のスタートを切った。

 ただ、その試みは長くは続かなかった。POPやパネルに彩られた熱量の高い店づくりは誰にでもまねできることではなく、人手不足の中ではますます難しくなる。また、店外でのイベント運営が収益の柱になるにも時間がかかる。情熱で動く書店員個人と、店の安定と持続を望む会社の方向性が、次第に食い違うようになっていた。最終的にさわや書店が選んだのは、販促物やイベントにコストをかけるのではなく、書店としての経営効率を上げるという方針だった。

 田口氏はさわや書店を19年春に退社。意外にも、次の活躍の場は書店ではなく取次会社だった。念頭にあったのは、楽天ブックスネットワーク構造改革推進本部の吉田正隆氏らが事業化した「ホワイエ」だ。「出版業界で新しいことを始めるには、本の流通をシンプルなものに変える必要があると考えた」(田口氏)