経済学者で東京大学名誉教授の小宮隆太郎氏が、10月31日に93歳で亡くなった。小宮氏は米ハーバード大学で実証的な経済学を学んだ後、戦後日本の経済学界の多数派だったマルクス経済学を論破し、日本で「近代経済学」の礎を築いた。日経ビジネスの14年12月29日号の「遺言 日本の未来へ」特集で、インタビューにも応じていた(参照:追悼 経済学者・小宮隆太郎氏「まず観察、そして理論」)。
東京大学と青山学院大学などで教べんを執り、政官財の中枢で活躍する多くの教え子がいる。日銀前総裁の白川方明氏や日銀前副総裁の岩田規久男氏、日銀審議委員の高田創氏、元財務官の榊原英資氏、元地方創生相の山本幸三氏、日本商工会議所前会頭の三村明夫氏、日銀の次期総裁候補に名前が挙がる日銀前副総裁の中曽宏氏などそうそうたる面々である。
その中で、最後の教え子と言える経済学者が英ロンドンにいる。ロンドン大学・ロイヤルホロウェイ校准教授の平野智裕氏だ。平野氏は経済産業研究所(RIETI)で小宮教授のリサーチアシスタント(RA)を務め、毎日のように熱い議論を交わしていた。研究室から帰宅した夜中にも小宮教授から電話があり、電話口で長時間議論することも日常茶飯事だったという。平野氏の出世作となった論文にも多大な影響を与えた。
小宮隆太郎氏はなぜ戦後を代表する経済学者と言われるのか。その素顔をよく知る平野氏に小宮教授の功績や思い出を語ってもらった。

まず小宮隆太郎名誉教授とは、どのような出会いがあったのかを教えてください。
平野智裕氏(以下、平野氏):私が大学院生だった時に就職試験をしまして、日本銀行を受けたら落ちました。その時に経済産業研究所(RIETI)がリサーチアシスタント(RA)を募集していて、応募したら採用されることになりました。不思議なことですが、アシスタントなのに誰のRAをするかは聞いても教えてくれません。採用が決まってから小宮先生のRAだと分かったのです。
後で聞いたのは小宮先生のRAとして募集すると、応募が多すぎて収拾がつかない恐れがあるため、あえて名前を伏せたということです。この時、小宮先生は東京大学と青山学院大学の教授を務めた後で、既に70代後半でした。経済学の研究者の間では憧れの存在で、それほど人気があったのです。周囲から日銀は不採用で良かったね、と言われましたよ。
本来は週に1日のRAでしたが、小宮先生は非常に研究熱心で実質的にはフルタイム勤務に近い状況でした。偉大な先生ですので、私は無給でいいからRAをやりたいと思っており、時間が長くなっても全く問題ありません。日本のプロ野球で打撃3冠王を3度獲得した落合博満さんが「無給でいいから米メジャーリーグで1年間プレーしたかった」と言ってましたが、私にとっては小宮先生との3年間ほどの研究は、落合さんにとってのメジャーリーグのような機会でした。もちろん私は落合さんほどの実績はまだありませんが。
RIETIでは日本経済を良くするために、参考になる事例を熱心に研究されていました。低迷から立ち直った英国やフィンランド、アイスランドなどの事例から何かヒントにならないかと、「西北欧諸国と英国の経済的躍進」などいくつかのリポートをまとめました。
研究の中で印象的だったのは、現場を重視していたことです。地方の学会に行くことがあれば、企業の従業員や工場を訪問するなど、経済の現場に足を運んでいました。「データには抜け落ちている何かがある」という持論があり、現場を重視しながら地に足をつけた研究をすることは小宮先生の真骨頂だと思います。
とても研究熱心で私が帰宅すると、「小宮ですけど」と先ほど研究室で議論していた先生から留守番電話が入っているのです。電話をかけ直すと、「あの研究についてもっと議論を深めよう」と2時間ぐらいは電話口で議論することがよくありました。緊張感を持ちながら立ちっぱなしで頭をフル回転させて話すものですから、おなかがすくんですよね。今振り返るとぜいたくな時間でした。
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