マスク氏が突如始めた生放送と巧みな戦略
その集団の中心にいたのが、すらりと背が高くて肌が透けるように白い男性。思ったよりも細身だったので脳内で処理するのに数秒かかってしまったが、紛れもなくマスク氏だった。
慌ててフードコートの裏口から飛び出たが、エントランスの方に目を向けるとすでにマスク氏はエレベーターの向こうに消えた後だった。
「アーーーーーーーー!」
一世一代の大チャンスだったが、すんでのところで見逃した。なんということだ。悔しさが込み上げてきたが、すぐに気を取り直した。出社したということは、帰宅するときにまた同じ経路を通るはずだ。フードコートで張り込んでいれば、きっとまたチャンスは訪れる。
「よっしゃ!」。再びパソコンを広げ、スマホで同氏のツイートを確認すると、丸い枠で囲まれたプロフィル写真の周囲が点灯しているのに気づいた。音声チャット機能で生放送を始めたようだ。すぐにクリックして音声を確認すると、マスク氏がツイッターの今後の経営戦略について語っている最中だった。同氏が本社に到着した直後に発信を始めたようだ。
買収以降、米ゼネラル・モーターズ(GM)などツイッターへの広告掲載を保留する大手企業が続出していた。「1日当たり400万ドルの損失が出ている」とマスク氏が表現したように、放っておけばすぐに倒産する。生放送は、広告主に向けてマスク氏の頭の中にある今後の方針を司会者とのQ&A形式でざっくばらんに明かすというものだった。
具体的な内容についてはその後、二転三転しているのでここでは取り上げないが、まず実感したのが同氏の巧みなマーケティング戦略だ。
マスク氏の頭の中を想像してみると(8月のマスク氏特集号のタイトルは「イーロン・マスクの頭の中」だった)、こんな感じだと思う。
ツイッターの売り上げ拡大には、ユーザーの利用と広告掲載の拡大が欠かせない。現在、同社が持つ最大の資産はマスク氏本人の話題性だ。ならば、既存メディアの取材に応じて、その資産をみすみす手渡すのではなく、ツイッターのために戦略的に使う。マスク氏が、いわば「記者発表」をツイッター上で行うことで、聞きたいと思う視聴者がツイッターに登録。登録ユーザーが増えれば広告収入も上がる。筆者も正直、これまでツイッターをほとんど利用してこなかったが、買収の話が出てからは、いまだかつてない頻度で確認するようになっていた。
またマスク氏がメディアを嫌う最大の理由は、少なくとも同氏自身は真実とは異なる報道をされているとの認識があるからだ。こうして公の場で直接、語ることで、一般消費者にメディアを介さず直接、情報を発信することができる。
筆者自身はメディアの存在は必要不可欠であり続けると考えている。世の中に存在する情報がすべて「生のまま(ローデータ)」であれば、重要なところだけをかいつまんで知ることができず不便だ。ただ純粋にツイッターが生き残っていくために必要なことは何かと問われれば、マスク氏の取っている行動は正しいと認めざるを得ない。
「あ~あ」。ますます取材が入りにくくなると思うとため息が出た。
初めて目撃した「マスク氏の金庫番」
この日の本社前は、筆者からすると「事件」であふれていた。特集でも取り上げたが、マスク氏が経営するニューラリンクのCEOで、個人財団の金庫番も務めるジャレッド・バーチャル氏は、マスク氏が所有するすべての資産を運用する人物だ(関連記事)。
筆者が張り込みをした約2週間のうち、前半はよく彼を目撃した。9時ごろになると出社して、時折、外部からの訪問客を送り出すためにエントランス外に出てきた。倒産間近だったに違いない同社の資金繰りに奔走していたと考えられる。
マスク氏によるツイッター買収直後、同社にはバーチャル氏だけでなくマスク氏が信頼する人材が社外から集結していたようだ。ツイッターを解雇された元社員によると(関連記事)、誰を解雇するかを検討するチームとしてテスラの技術者たちが来ていたという。リストラという「大手術」をするために、各地からマスク氏お抱えの「外科医」を集めていたわけだ。マスク氏はかなり本気だな、と思った。
張り込みにはうってつけの場所とはいえ、いつマスク氏が出てくるか分からないのでトイレにも行けず午後に突入。この直後、筆者にとって、どうしても忘れることのできない「衝撃事件」が起きる。
時刻は2時42分。マスク氏目撃から時間がたち、仕事にようやく集中できるようになってきた頃、なんとなく周囲の空気が変わったのを感じた。ふと前に目を向けると、スーツケースを転がした黒髪の女性がツカツカとエントランスに歩み寄っていくのが見えた。なんとなく様子がおかしいな、そう思った瞬間、彼女はスプレーを取り出すと、いきなりガラスに文字を書き始めた。
「オー・マイ・ガーッド!」。周囲から声が上がった。
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