パナソニックグループの精神的支柱となってきた創業者、松下幸之助。歴代のトップが、その存在に近づいては離れながら経営に当たった。停滞を脱しようとする中で、振り子は再び幸之助へと振れる。=文中敬称略

■この連載ここまで
(1)パナソニック、思考停止の壁どう壊す トップ楠見の頭の中
(2)イーロン・マスクの速さに学べ パナソニック、電池100年目の脱皮
(3)さらば家電の安売り パナソニック、マイナーチェンジ地獄脱す
(4)パナソニック、巨額買収の米ブルーヨンダーと始まった融合

本社敷地内にある創業者、松下幸之助の像。経営陣や社員にとって大きな存在だ(写真=行友 重治)
本社敷地内にある創業者、松下幸之助の像。経営陣や社員にとって大きな存在だ(写真=行友 重治)

 2022年11月、旧松下電器産業の社長だった中村邦夫が亡くなった。00~06年に6代社長に就いた中村は、歴代社長の中で、松下幸之助が築いた事業モデルを壊した人物とみられてきた。

中村の「破壊と創造」

 中村が着手したのは事業部制の廃止。研究開発や製造現場の重複を解消するため、約70年続いた体制に終止符を打った。聖域とされていた雇用にも手を付けた。勤続10年以上、58歳未満の社員を対象に早期退職者を募集し、02年3月までに約1万3000人が退職した。これほど多数の社員が去ることは従来の松下にはなかった。

 02年3月期には4278億円の最終赤字を計上、当時としては同社で過去最大の赤字額だったが、中村の構造改革によって2年後には黒字に転換。改革には、米国や英国の駐在が長かった中村の合理主義的な考えが色濃く出た。

 中村の路線を継承した7代社長の大坪文雄は、08年に社名をパナソニックに変えた。「パナソニック」「ナショナル」など商品によってバラバラになっていたブランド名と社名を統一させ、結果として創業者、松下幸之助の色がない「パナソニック」を採用した。

 「破壊と創造」を旗印にした中村と、それを継承した大坪。だが、00年代後半にプラズマテレビへ過剰に投資し、のちに2年間で1兆5000億円に上る最終赤字を計上することになった。創業者時代の経営と一線を画す取り組みは多かったが、残ったのは「破壊」で、「創造」にまで至ることはできなかった。

 12年に8代社長に就いたのが、津賀一宏。当初は記者会見や社内で、幸之助やその理念にほとんど触れることはなかった。研究開発者出身らしく、何にもとらわれない独特の思考が特徴で、創業者さえも特別視しなかった。「創業者の枠組みから抜け出せないのは情けない」「我々の経営理念を築くべきだ」などと、時に幸之助の経営を否定しているかのような発言もあった。

 だが、社長在任期間の半ばから、「次第に幸之助の理念や考えに立ち戻ることが増えた」とある幹部が話す。その時期は、プラズマテレビの事業失敗による巨額赤字からV字回復を果たしたのち、新たに打ち出した車載関連などの事業につまずき始めた頃と重なる。

 津賀は「パナソニックとは何の会社なのか、自問自答している」と記者らを前に本音を吐露していた。在任期間の後半は創業者への思いをはせるような場面が増えた。日々新たな観点でものを考えて事をなす意味の「日に新た」や、物事の本質を見るときのあるべき姿勢を表す「素直な心」に言及した。

この記事は会員登録で続きをご覧いただけます

残り3294文字 / 全文4603文字

【初割・2カ月無料】有料会員の全サービス使い放題…

特集、人気コラムなどすべてのコンテンツが読み放題

ウェビナー【日経ビジネスLIVE】にも参加し放題

日経ビジネス最新号、11年分のバックナンバーが読み放題

この記事はシリーズ「中山玲子のパナソニックウオッチ」に収容されています。WATCHすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。