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 英ランセットと米ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン(NEJM)という超一流の医学雑誌に掲載された論文が、6月初めに相次いで撤回されるという事態が生じた。理由は論文の基になった新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の患者データに疑念が持ち上がったのに対し、データの提供者が生データの開示を拒んだことによるものだ。(一流医学誌、論文撤回の教訓 コロナ下「査読が甘い」との指摘も

 科学論文は、その内容の品質を確保するために、各ジャーナルの編集者が内容をチェックするだけでなく、外部専門家による査読(ピアレビュー)という作業を経て掲載される。複数人の査読者から得たコメントに基づいて編集者が著者とやりとりし、場合によっては追加の実験データを求めることもある。このため、論文を投稿してから掲載されるまでに1年以上かかるようなことも少なくない。

検証にどこまで時間をかければいいのか

 今回の論文撤回の背景には、新型コロナの感染が拡大する中で、査読が甘くなっている事情はありそうだ。だが一方で、緊急性の高い内容の論文の検証にどこまで時間をかければいいのかという課題もある。

 ランセットを出版するオランダのエルゼビアのジャーナル担当マネージング・ディレクターであるフィリップ・テアヘーゲン氏に話を聞いた。なお、エルゼビアは情報分析を専門としたグローバル企業で、2500誌以上の電子ジャーナルの他、3万9000タイトル以上の電子書籍の発行などを手掛けている。

ランセットという医学雑誌を出版するオランダのエルゼビアのジャーナル担当マネージング・ディレクターであるフィリップ・テアヘーゲン氏

米サージスフィアが提供したデータを解析したランセットとNEJMの論文を相次いで撤回したが、原因を何だと考えているか。回避のしようはなかったのか。

フィリップ・テアヘーゲン氏:我々の業界では年間5000報の論文に1つの撤回があるといわれているが、新型コロナ関連の論文で既に15報の撤回があった。新型コロナに関連して論文は増えており、エルゼビアではこれまでに新型コロナ関連だけで3万6000報を掲載した。世界全体の論文数は分からないが、撤回の率は恐らく高まっているだろう。

 ただ一方で、世界的な健康危機の状況で、命を救う可能性がある考察を扱った論文は速やかに公開する必要もある。特に知名度の高いジャーナルに対しては、正確性とスピードのプレッシャーが非常に高くなっている。

 もう1つ重要なのは、出版された論文というものは、その時点の「知識のスナップショット」のようなものであって、知識の最終産物ではないということだ。出版された論文は読者によって検証され、次のラウンドに引き継がれていく。知識はこのように検証を繰り返しながら進んでいくものだ。

 実験の中で時には間違いが生じることもあるが、間違いは的確に発見されて検証されていくことがサイエンスにとっては重要だ。間違いに気付いた読者が指摘をすることが重要だし、指摘があれば編集者や著者は速やかに対応することが重要だ。一番怖いのは、間違いが放置されてしまうことだ。

 サージスフィアのケースについて詳細なコメントは控えるが、編集者が慎重に対応したならば掲載には至らなかったかもしれない。ただ、生データの開示がなされていない中で、どこまで時間をかけて検証すればよかったのかというと難しい判断だと思う。

投稿が9倍も増えたジャーナルも

COVID-19の発生以来、これまでと査読の仕方や出版のプロセスを変えたようなところはあるか。

テアヘーゲン氏:COVID-19の発生から半年が経過したが、まず何よりどのジャーナルも投稿される数が増えている。通常より9倍も増えたジャーナルもある。これに対応するために、リモートアクセスを改善して編集者は自宅で作業ができるようにした。

 出版のプロセスの中では、オンラインで投稿された論文の中から「コロナウイルス」や「COVID-19」という言葉を自動検出するアルゴリズムを開発して優先順位を上げ、査読者にも協力を求めて通常より早く査読を進めて出版するようにしている。また、編集者や社内のスタッフも増員して、内部の事情で遅延が発生しないようにも努めている。

 投稿自体が増えているが、一方で研究者に投稿を促す呼び掛けも行っている。特に、医学論文だけでなく、新型コロナのパンデミックに関する社会科学、人文科学系の論文も投稿するように呼び掛けているところだ。

論文の撤回を避けるために行っていることはあるか。