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 埼玉県所沢市。県道沿いにある自宅兼作業場の倉庫には、1階の入り口に車体部品が、奥に進むとバイクのデザイン画が整理されて置かれている。

 工業デザインを手がけるMOOKU(ムーク、埼玉県・所沢市)。廣瀬睦夫氏(68)がホンダを辞めた後に立ち上げた会社だ。自動車メーカーから離れて約30年が経過するが、今も一人でデザイン画を描き、模型を造り、試作機を造る。

廣瀬睦夫さんは自動車部品を使って自分で組み立てる「キットカー」のデザインを手がける

 高知県の高校を卒業後、1970年に浜松市にあるホンダの工場へ就職が決まった廣瀬氏。憧れていたのはデザインの仕事だった。

 だがデザイン学校を卒業したわけでもない廣瀬氏が最初に配属されたのは熱処理の現場。さまざまな熱処理を行うことで自動車部品の強度を高める仕事だった。3交代制のために働く時間帯が1週間ごとに変わり、生活リズムが崩れ十分に眠ることも難しい。現場では常に汗だくで、仕事の過酷さから体は日に日にやせていく始末。なんとかデザインの部署へ移れないものか。そこで療養中に上司へ頼んだ。「このスケッチをデザイン室へ渡してほしい」。

 船や人、車を描いた12枚のスケッチを託したところ、埼玉県和光市にあるホンダの研究所への転属が決まった。研究所にはデザインを専門に学んだ同僚が大勢おり、廣瀬氏のようなずぶの素人は珍しい存在だった。面談をしたデザインチームの社員からは「君みたいな経歴の人がデザインに携わることは稀(まれ)ですよ」と言われた。

 今から50年前、米国の自動車メーカーは数値制御による機械加工で模型作りをしていたが、日本の自動車メーカーは手作業で数値を合わせ、粘土を使って模型を加工していた。当時、ホンダの研究所では羊の油と土をこねた粘土を使っていたため、模型を作るたびに手がくさくなる。「機械化が米国メーカーほど進んでなかったためとはいいえ、デザインの知識のない自分が造形やノミ、かんなのかけ方など全部を学べたのは貴重な経験だった」と廣瀬氏は振り返る。

 そんな廣瀬氏にのちの車造りにも及ぶ影響を与えたのが、ホンダの創業者である本田宗一郎氏だ。

 廣瀬氏は研究所に入ってから大型オートバイ「CB750」をはじめ、ホンダのスポーツ二輪車を代表する「CB」シリーズのデザインにチームの一人として携わっていた。その研究所にいたのが宗一郎氏だった。