スズキは2月24日、鈴木修会長が退任し、今年6月の株主総会を経て相談役に就任すると発表した。同日開いた記者会見で、修会長は「役員体制を一新し後進に道を譲る」とし、「(退任は)100周年の峠を越えたから決意した」と述べた。

24日、オンラインでの記者会見。左は長男の鈴木俊宏社長

 修会長は現在91歳。創業家の娘婿として1958年にスズキに入社した。当初は「役員から疎まれ風当たりもきつかった」(修会長)というが、愛知県豊川市にある工場の建設計画を軌道に乗せ、ホープ自動車から買い取った「ホープスターON型4WD」を「ジムニー」として売り出し一躍ヒット商品にするなど、経営手腕を発揮してきた。

 70年代には排ガス規制をクリアできずトヨタ自動車からエンジン供給を受けるなど苦境に直面したが、大手自動車メーカーの進出していない未来の巨大市場、インドに狙いを定め、83年に現地での生産・販売契約を締結。インド政府へのトップ外交から事業を開始し、いまではインド事業だけで売上高1兆円を稼ぎ出す。

 修会長は自身を「中小企業のおやじ」と表現するが、入社当時は売上高が48億円ほどしかなかったスズキを世界の軽・小型自動車メーカーに押し上げたのは間違いなくその手腕によるものだ。約40年にもわたって経営トップを務めてきただけに、時には「ワンマン」とやゆされることもあった。

 ただ、この約20年間は自らの後継者を探してバトンを引き継ぎ、集団経営体制に移行させようとしてきた。

2019年12月に静岡県掛川市で開かれた、軽トラックの荷台で特産品や菓子などを販売する「軽トラ市」で、鈴木修会長は訪れた人から写真や握手を度々求められていた

後継者で誤算の連続

 2000年、戸田昌男副社長(当時)を後任の社長に決め、自らは代表権のある会長に就任すると発表した。だが戸田副社長は胃がんの手術を受け、辞任を申し出た。03年には津田紘専務がバトンを受け継いだとはいえ、08年に健康不安から退任。修会長が「次の社長候補」と考えていた長女の娘婿で、経済産業省出身の小野浩孝氏も07年に急逝した。

 その後、08年に会長兼社長としての復帰が決まった。そのとき既に修会長は78歳だった。

 修会長はスズキの経営体制について、2000年の日経ビジネスのインタビューで「機能別に役員に権限を委譲している」と述べていた。ただ上記のように後継者探しで誤算が続いたことに加え、経営環境も大きく変わっていった。15年、独フォルクスワーゲン(VW)との資本業務提携の解消が決まり、新たなパートナー探しが必要となった。16年にはトヨタとの業務提携に向けた検討を始めると発表したが、19年には検査不正問題が発生し、再発防止策も含めた風土改革が必要となった。15年には長男である鈴木俊宏氏に社長の座を譲ってはいたものの、修会長は実質的な経営トップから降りるタイミングを失い、会社としても修会長のリーダーシップに依存せざるを得なくなっていた側面がある。

 スズキに限らず、ソフトバンクグループやファーストリテイリング、楽天、日本電産など、カリスマ的経営者から次の世代へどのようにバトンを受け継ぎ、後継者を育成するのかといった課題を抱える企業は多い。あるネット企業の創業者は「自分が事業について一番分かっているからこそ、なかなか後任に任せたくないと思ってしまう」と話す。

 修会長の退任とともに、スズキは中期経営計画を発表した。26年3月期の連結売上高を20年3月期に比べて37%増となる4兆8千億円、新車販売台数は同3割増の370万台に引き上げる目標を掲げ、5年間で1兆円の研究開発費を投じる。鈴木俊宏社長は「カーボンニュートラルの流れがある中、スズキだけが遅れるわけにはいかない。軽自動車を守り抜くのが私の使命だ」と強調した。

 新たな経営陣による集団経営体制を印象付けるなか、修会長は「経営計画をチェックし続ける」と話した。記者会見を「バイバイ」という言葉で締めたが、経営の一線から本当に退くことになるのか。修会長がどのような距離感でスズキの経営に関わっていくかは、多くの経営者が注視することになりそうだ。

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