セブン&アイ・ホールディングス(HD)の百貨店子会社「そごう・西武」の売却が決まり、注目されるのが西武秋田店・福井店など地方店の存続だ。2006年にセブン&アイHDの傘下に入った後、28あった店舗は10店舗まで減った。徳島県では20年夏にそごうが撤退したことで「百貨店ゼロ県」に。施設を管理してきた徳島市の第三セクター「徳島都市開発」は自ら百貨店の再誘致に動き、サテライト店「三越徳島」開業にこぎつけた。当事者となった三セク社長が、そごう撤退後に見た地獄を振り返った。

 ゴウンゴウンゴウン……。

 人もまばらなJR徳島駅前の再開発ビル「アミコビル」では、エスカレーターの稼働音だけが館内に響いていた。テナントが去った施設は、まるで歯が抜けたような歪(いびつ)な姿をさらす。空いた店舗が白いフェンスで仕切られ、残ったテナントへ続く通路が迷路のように続いていた。

 「幽霊屋敷に迷い込んだかのような雰囲気だった」――。

 そう話すのは、徳島市の第三セクター「徳島都市開発」の鈴江祥宏社長。20年8月、徳島県は「百貨店ゼロ県」になった。県内唯一の百貨店だったそごう徳島店(旧・徳島そごう)がアミコビルから撤退したためだ。同施設を運営する徳島都市開発はキーテナントを失い、後継テナントを見つけられず悩んでいた。

 「ほぼ土下座のような姿で出店のお願いを続けた」。鈴江社長は、悔しさをにじませながら語り始めた。

20年8月に37年の歴史に幕を閉じた「そごう徳島店」(写真:共同通信)
20年8月に37年の歴史に幕を閉じた「そごう徳島店」(写真:共同通信)

駅前再開発で誘致したそごう

 そごうが徳島市にやってきたのは40年近くも前のことだ。

 1970年代、小学校や事業所などが混在していた国鉄徳島駅前(当時)の再開発計画が立ち上がると、区画整理した土地に地下2階・地上9階の商業施設を建てることになり、キーテナントとして当時拡大期にあったそごうを誘致した。「徳島が生んだ四国一の百貨店」というキャッチコピーとともに83年10月、店舗面積約2万7000平方メートルを誇る全国13番目のそごうとしてオープンした。

 当時、徳島市には駅前から約400メートル離れた商店街に地元百貨店の丸新があったが、「結果的にそごうが客足を奪ってしまった」(鈴江社長)。93年2月期にそごう徳島店の売上高がピークとなる444億円に達すると、2年後に丸新は閉店。周辺商店街も徐々に衰退していき、駅前のそごうが「県内唯一」の百貨店となった。

地元百貨店「丸新」のあった周辺の商店街ではシャッターが目立つ
地元百貨店「丸新」のあった周辺の商店街ではシャッターが目立つ

 だが、そごうの栄華も長くは続かなかった。98年に明石海峡大橋が開通すると、それまで船頼みだった関西圏への交通手段は自動車に置き換わり、商圏を奪われる形でそごう徳島店も客足が減り始めた。2000年には旧そごうグループが民事再生法の適用を申請して破綻。大きな設備投資が難しくなる中、郊外に無料駐車場を備えたショッピングモールが相次いで開業したことも衰退に追い打ちをかけた。

 そごう徳島店は売り場面積を約2割縮小。19年2月期には売上高約128億円と、ピーク時の3割以下まで落ち込んでいた。同年10月、親会社のセブン&アイHDは主力となるコンビニ事業などへの「経営資源の集中」を理由に、そごう徳島店を含む「そごう・西武」5店の営業終了を発表した。

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