現代人は、多分に「奴隷的」である

上田:リベラルアーツは一般に「教養」と訳されますが、あらためて考えれば「リベラル(自由)+アーツ(技)」なんですね。

 そして、ギリシャ・ローマ時代には「自由市民」と「奴隷」という階級がありました。

 自由市民というのは、例えば、ソクラテスやプラトン、アリストテレスのような人たちです。自由市民は「ポリス」という共同体で直接民主政を担う政治家でもありました。だから、共同体をどう導くかについて、日々、思いを巡らせていました。自分の知性と感性を総動員して、共同体の未来を考え、「絶対的な善とは何か」といったことを考えていたわけです。

 一方の奴隷ですが、何も鞭(むち)打たれて働かされていたわけではありません。奴隷とは「自由市民の指示で働く労働者」です。指示通りに働くわけですから知性はさほど使いませんし、感性となったらもう、ほとんど使いません。

 そう考えると、現代社会の組織の末端で働く私たちには、多分に奴隷的なところがあるわけです。池上先生は自由市民だと思いますが(笑)、副学長であるところの私は当然、学長の指示に従いますし、文部科学省に命じられて、いろんな書類を書いたりしているわけです。ときには「こんな面倒な書類に、どんな意味があるのかなあ」などと思いながら。これはいかにも奴隷っぽいですね。

 そうであっても私たちは100%奴隷では生きていけません。リベラルアーツや教養といった言葉が、今、私たちの胸に響くとすれば、そういう事情があると思います。

なるほど。先ほど池上先生が指摘された「イノベーション」が、どちらかというと企業経営の課題であるとしたら、上田先生にご指摘いただいた「人としての根っこ」は、企業をはじめとする組織で働く個人の課題という印象を受けます。教養と「人としての根っこ」の関係について、池上先生は、どう考えますか。

池上:そうですね。例えば、理系の学生が企業に就職して、研究開発部門で働いていたとします。そこで自分の専門分野を探索して、研究成果が上がり、製品化されて、利益が上がった。すると、それだけで喜んでしまって、その成功が副作用として社会にどういう影響を与えているかが見えない。そもそも視野に入っていない、ということが、往々にして起きます。

 日本の現代史を振り返れば、水俣病があります。

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