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徳川の家系はもともと短気

 家康には爪をかむ癖があったとされています。自分には至らないところがある。寛容でないと生き残れないと思っていた。徳川の家系はもともと短気で、おじいさんもお父さんも長男もみんな早死にしています。そうなってはいけないと肝に銘じていた。

 家康は三河(現・愛知県東部)と駿河・遠江(おのおの、現・静岡県中部と西部)に加えて、甲斐(現・山梨県)、信濃(現・長野県)を苦労して手に入れました。しかし1590年に、秀吉による国替えの命を受けて関東八州(実際は六州=6カ国)に移り、江戸を本拠地にすることになりました。そんな処遇を受けても我慢することができた。

 秀吉の天下統一のやり口は巧みでした。敵が降参したら損をしないようにしていたことです。だから秀吉は短期間に天下を取れた。敵対していた大名も降参した方が得だと考えるようになりました。なぜ秀吉はそんなことができたのか。ひもじい思いをしながらやってきた人間の発想で、敵を味方に付けるのが上手でした。

 しかし家康は人を信用しない性格です。例えば、人質生活を終え、三河に返り咲いたら、1563年に三河一向一揆が起きる。忠誠度の高さで知られる三河家臣団の半分が叛旗を翻しました。後に江戸幕府の中枢で二代将軍の徳川秀忠を支えて活躍する本多正信(ほんだ・まさのぶ)まで反乱に参加。家康の傍で鷹匠(たかじょう)として仕えていた正信が弟・正重と2人で一揆方に付き、自分を殺そうとした。家康にとって、さぞやショックな事件だったことでしょう。

 それでも、いったん自分に弓を引いた家臣でも許すだけの寛容さが家康にはあった。こうして多くの有能な家臣たちが、徳川家を支えてくれたことが後の天下取りへとつながっていきます。

 自身の敗北をひた隠しにするのではなく、絵に描かせて反省材料にする。自分を打ち破った相手の戦術を躊躇(ちゅうちょ)なく取り入れる。自分を殺そうとした部下さえも許して活用する。

 過去(歴史)に学び得ない人に、未来を設計することはできません。とりわけ痛恨の失敗さえも生かす家康の姿勢は、ビジネスパーソンにとっても、大変参考になるものです。

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