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絶望の中で開き直り、悟った

家康は幼少期を織田氏、そして今川氏の下で人質として過ごしました。我慢を強いられて育ったと言えます。その経験が家康の性格に影響しているように思います。

加来:家康は絶望の中で開き直り、悟った。自分より能力が高い部下がいれば、使えばいい。軒(のき)を貸すだけでなく、母屋(おもや)まで貸してもいいといった度量がありました。

 自分の力量の限界を知る家康は、部下にすがるしかありませんでした。だから優秀な部下に対して、寛容さを発揮しました。長男さえも自刃させる羽目に陥った経験はつらいものです。天下を取ったが、天下人の座は何日続くのかと考える。豊臣家を滅ぼしたら、今度は自分の死んだ後が心配になる。

 家康は生き残るのに必死でした。それでも頑強だったから、天下を取れた。現代人も、自分の体力を過信すると、ここぞというときに病気をします。そうならないように家康は気を付けていました。

 あの時代にしては珍しく、家康には「予防医学」とも言える健康に対する強い関心がありました。毎朝起きたら刀を振る。馬に乗って、弓を引く。鷹狩りにも出かける。普通なら獲物がいないとやめるが、家康は最初のルール通りにやる。体を動かし、汗をかくのがいいことを知っていました。

 家康は医学に詳しく、調合した秘薬がいくつもあり、大名たちが欲しがっていたほどです。家康が死んだ後も、大名たちはどうやったら秘薬が手に入るのかを気にしていた。

 秘薬を分け与える際のランクまで家康は決めていました。この薬は2親等、あの薬は3親等までなら与えるといった感じです。家康は自分の寿命を本当に真剣に考えていました。自分が死んだら徳川家はなくなる。だから1日でも長生きしたいと。

 健康に徹底してこだわっており、家康はリスクがある女性を近づけませんでした。秀吉は手当たり次第でしたが、家康は違います。朝鮮出兵で有名な加藤清正は、梅毒で死んだという説があります。浅野幸長(あさの・よしなが)が梅毒で死んだことは徳川家の「当代記」に記されており、加藤清正についても「好色の故、虚の病」といったふうに指摘されています。

 むやみやたらと手を出さなかったのは、リスク管理のためだったように思います。家康には多くの側室がいましたが、一度子供を産んでいる女性を好んで選びました。この結果、家康は11男、5女という多くの子宝に恵まれました。