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「信長は生きている」という偽手紙

信長は火の手の上がる建物の奥に自ら入り、焼け死んだとされています。死に直面する土壇場で、信長が自分の首があがらなければどうなるかまで考えていた。そうだとしたら、本当に壮絶な覚悟で、自分が死んだ先の展開まで見通していたということになりますね。

加来:「生き残れるかもしれないが、首をあげられるかもしれない」と考え、信長はそのような選択をしている。後から光秀が秀吉に滅ぼされたのは、信長の首をあげられなかったためだという見方もあります。首がなかったので、信長の生存説を打ち消せなかった。だからこそ信長の配下だった主な武将たちが、光秀の誘いに乗ることはありませんでした。

 秀吉と中国攻めをしていた黒田官兵衛が姫路に3日間とどまって調べていたのは信長の首があがったかどうかです。見つからなかったと知って「信長は生きている」という偽の手紙をバラまいた。万が一でも生きていれば、誰も怖くて動けない。信長は死ぬ瞬間まで、仕事をしたと言えるでしょう。

 戦国武将に限らず、経営者も同じはずです。年をとると、周囲にイエスマンが増えて、かっとなりやすくなる。信長は、光秀の気持ちが分からなかった。人には思いやりを持って接しないといけません。

歴史にイフはありませんが、光秀にはほかに選択肢はなかったのでしょうか。

加来:光秀はだんだん余裕がなくなっていました。本願寺との10年以上にわたる戦いがようやく終わったと思うとつらかったことを思い出す。長年、信長に仕えて尽くしてきた佐久間信盛(さくま・のぶもり)が追放された事件もありました。光秀が「次は俺がやられる番かもしれない」と考えても不思議はありません。

 もしあのタイミングで助言者がいたら、光秀は本能寺の変を起こさなかったかもしれません。私は、もし本能寺の変の6年前に亡くなった光秀の妻が生きていたら、彼は本能寺の変を起こさなかった可能性もあると思っています。

 光秀は疲れもある中で、次は中国方面へと向かっていました。その後は、九州征伐の総大将になる可能性もあり、また行かされるだろうなと感じていたことでしょう。朝鮮半島から明国まで、信長の野望には果てがありませんでした。

 日本人は歴史に学べず、結果しか知らない人が多い。大事なのはスタート地点とプロセスです。本能寺の変で明智光秀は三日天下(実質は11日間)だったと聞くとああそうかとなる。

 しかし歴史学は科学で反復性があります。国家も個人も組織も、人間の体と同じです。生まれて育って壮年期を迎える。あらゆる組織や個人がこれに当てはまります。そこから考えることが、歴史を読み解くカギになります。

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