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なぜ明智光秀に不覚を取ったのか?

そんな信長が、本能寺の変ではなぜ明智光秀に不覚を取ったのでしょうか。

加来:慎重だった信長ですが、晩年になると疲れが見えてきます。これはすべての経営者に言えることでしょう。長期政権は裸の王様になりやすい。物事が見えなくなりがちで、かっとしやすくなります。

 それまで苦労してきた反作用もあります。だから勘違いをしてしまう。信長は、光秀を一番頼りにしました。光秀は遅い時期に登用された幹部です。それでも織田家の家臣として、最初の城持ち大名になりました。城持ちとは領地を持つ大名を指します。

 実際、光秀が信長から得ていた坂本城(現・滋賀県大津市)と亀山城(現・京都府亀岡市)は京都の東と西に位置します。つまり信長としては、「一番重要なところを任せた。光秀のことは買っているよ」という思いでいました。だから光秀に対して甘えが出る。経営者はみな、心配が世の中にある時は周囲のバックアップがあるが、引き際で失敗しやすい。信長もそれをやってしまいました。

それだけ君主に認められているのに、家来が裏切ろうという気持ちになるのは不思議です。会社で自分のことを引き上げて、給料も増やしてくれた社長に反逆する部下はまずいません。

加来:光秀は信長より高齢で、戦争が果てしなく続く毎日に疲れていました。光秀の生年には1528年、1516年などいくつかの説がありますが、いずれにせよ、6~18歳も信長より年長です。

 しかし、いつまでたっても信長は戦争をやめようとしない。本能寺の変が起きたのも、光秀が、羽柴(のち豊臣)秀吉が派遣されていた中国攻めの援軍に向かう最中でした。経営者の中にも死ぬまで現役だという人もいますが、信長はまさにそのタイプでしょう。

 「もう疲れたし、最愛の妻も亡くなったのでゆっくりしたい」。死ぬまで働きたい人には、そういう人の気持ちが分かりません。次はああだ、その次がこうだと、指示を出し続ける。信長からすると、光秀には「領地も与えた。何か文句があるか。報酬を払っているだろう」という気持ちだったと思います。もうやめたいという人がいることが分からなかった。

 実際、信長は、死ぬ瞬間でさえも仕事をしました。「是非に及ばず(仕方ない)」という言葉は有名です。信長公記の筆者が本能寺の変の時に傍にいた女官に聞いています。「明智が攻めてきたら殺されるだろう。明智を倒すのは、秀吉か家康だろう」。瞬時にそこまで考えた信長は、ならば「首をやらない」と判断した。