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 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、真田幸村、上杉謙信……。歴史に名を残す英雄たちは、どのような失敗を経験し、そこから何を学べるのか。日経BPから『歴史の失敗学』を刊行した歴史家の加来耕三氏が、独自視点の軽快かつ濃密な歴史物語で25人の英雄たちの “知られざる失敗の原因” を明らかにし、ビジネスパーソンに役立つ教訓を浮かび上がらせる。

 今回、取り上げるのは織田信長。天下統一への道を開いた規格外の戦国武将の失敗からはどのような教訓が得られるのか。一般的なイメージとは異なる信長の実像に迫る。

(聞き手は田中淳一郎、山崎良兵)

信長は若い頃、常識やルールを守らない問題児で「大うつけ」と呼ばれていました。父親の葬儀でお香を位牌(いはい)に投げつけたエピソードも有名です。また「比叡山延暦寺」の焼き討ちに象徴されるように、短気で怖い人物というイメージが強いようです。

加来耕三氏(以下、加来):「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」というのが信長のイメージです。一方、「鳴かぬなら鳴くまで待とう」が徳川家康とされますが、私はそう思いません。実は「鳴くまで待とう」が信長だと思っています。彼は勝てる根拠がない戦いをしないタイプです。一般的に、武士は、人に笑われることが屈辱で、笑われないことを大事にして生きています。しかしこうした武士道の常識は、信長には最も当てはまりません。

 そんな信長を象徴するのが1570年に信長が越前(現・福井県北部)の国主・朝倉義景(あさくら・よしかげ)と戦った「金ヶ崎(かねがさき)の戦い」です。信長は大軍を率いて金ヶ崎城(現・福井県敦賀市)をあと一押しで落とすところまで迫りますが、妹のお市を嫁がせた義弟、浅井長政(あざい・ながまさ)の裏切りにあいます。朝倉・浅井の挟み撃ちを恐れた信長は、味方を置き去りにして、わずかな護衛だけを連れて戦場から離脱しました。

 普通の武士なら逃げないところです。不名誉であり、プライドが許さないはずですが、信長は違いました。

 古代中国の項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)の争いで有名なのが「垓下(がいか)の戦い」です。勝ち続けていた項羽でしたが、最後には敗れました。項羽はこの時に長江の渡し場まで落ち延び、渡し船に乗って川を渡れば、自ら決起した江東(こうとう)の地で再起することも可能でした。しかしいったん挙兵したのに多くの兵を失って地元に戻るのは、彼の面目、プライドが許さない。結局、項羽は漢軍に突撃して、非業の最期を遂げました。

信長には、項羽のようなプライドがなかったから、一目散に逃げだすことができた。

加来:信長は実は忍耐強い人間です。金ヶ崎の戦いに敗れた後、すぐに朝倉・浅井連合を破るための手を打ちます。浅井方の主力を調略することで内部分裂を図りました。同時に戦いの準備を進め、同じ年に信長は、朝倉・浅井連合軍を「姉川(あねがわ)の戦い」で打ち破ります。

 信長は27歳の時に今川義元を討った「桶狭間の戦い」での奇襲攻撃や、若い頃に乱暴だった話が有名なこともあり、「信長=短気」という日本人の思い込みがあります。そこが間違っています。実際には恥を忍ぶことができ、慎重に準備を進めて、勝利を得るタイプです。

桶狭間の戦いで今川義元を破ったことが織田信長のイメージを作った(画:中村麻美)