「日本企業」という一般化はおかしい

経営学の世界でも同じでしょうか?

楠木:私の場合は、経営学という分野ですので、観察の対象は個別企業というミクロの次元にあります。個別の経済主体を観察しているので、日本企業って言われてしまうと「いろいろあるんだけどな」と。例えば、「日本企業は大丈夫か?」という質問をよく受けますが、実際には、全く大丈夫な企業もあれば、大丈夫ではない企業もある。会社ごとにそれぞれ違いがあるわけです。

 自分の専門分野が、そういう「日本」という集合名詞がうまく使えない分野だったということが大きいとはいえ、(集合名詞が主語になることが)昔から不思議だなと思っていました。

逆・タイムマシン経営論の方法論を取り入れれば、その曖昧さから脱却できる?

 1つの助けにはなると思います。経営に限らず、ミクロのレベルに降りて、個別の差異や問題点を見るという行動は、実際には面倒なところがあります。例えば、「日本の教育の問題点」といった問題提起はよく見かけますが、実際には、学校ごと、家庭ごとに違います。それぞれに様々な問題点があって、一概に論ずることは本来できません。

日本では、注目を集めているバズワードへの同調圧力を感じることもありませんか? 例えば、今盛んにDX(デジタルトランスフォーメーション)が語られていますが、産業界の空気としては、何はなくともDXという雰囲気で、本末転倒になっているケースも出てきているように見受けますが…。

楠木:確かにそういう仮説も成り立つと思いますが、私は、これも国によっての違いはあまりないのではないかと思います。DXの盛り上がりは米国も一緒です。

 国や地域による違いより、ビジネスというものが持つ特徴が、同時代性の罠を増長させている側面が大きいのではないかと思います。「忙しい、時間がない、いつも何か切迫感がある」。ビジネスに関わっている人々が置かれている環境は、どの国でも同じ。ということは、かかるバイアスも同じと言えないでしょうか。

 少し前の話ですが、「欧州からなぜネットベンチャーが生まれないのか?」という議論が現地で盛んだった時期があります。これって、日本でも散々議論になった話で、全く同じだと思います。ただ、「米国よりも文化の蓄積が豊かだから」といった肯定的な理由を落としどころにするのが、日本とは少し違うのですが…(笑)。

 私が仕事でいっとき暮らしていた1990年代のイタリアでは、盛んにグローバル化が叫ばれていました。EU(欧州連合)に加盟し、イタリアの独自通貨だったリラがなくなりユーロを導入する頃です。結果として、「これからはグローバル化だ」となり、もっと英語を勉強しないといけないという雰囲気になっていた。現象的には、日本と一緒だなと思ったものです。

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