岸見一郎、リーダーは「嫌われる勇気」を持ってはいけない
『ほめるのをやめよう』を巡る「自信のない管理職」との対話(4)
『嫌われる勇気』をはじめ、過去に多くの著作を持つ哲学者の岸見一郎氏。初めてリーダーシップを論じた『ほめるのをやめよう ― リーダーシップの誤解』の刊行に合わせて、今どきの中間管理職の悩みや疑問に答えるシリーズの第4回。日経BP・クロスメディア編集部長の山崎良兵が引き続き岸見氏に話を聞いていく。
今回は、「嫌われる勇気」と、リーダーシップの関係。
嫌われる勇気という言葉が一人歩きしたために、一部で誤解が見られると話す岸見氏。リーダーは、嫌われる勇気を持つべきではないという。
リーダーが持つべき勇気とは、不完全な自分を認め、それでも理想に向かって小さな一歩でも歩み続けること。その姿にこそ、部下は敬意を抱くはず。そんな独自のリーダー論を展開する。
(構成/小野田鶴)
岸見 一郎(きしみ・いちろう)
1956年、京都生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。著書に『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健氏と共著、ダイヤモンド社)、『生きづらさからの脱却』(筑摩書房)、『幸福の哲学』『人生は苦である、でも死んではいけない』(講談社)、『今ここを生きる勇気』(NHK出版)、『老後に備えない生き方』(KADOKAWA)。訳書に、アルフレッド・アドラー『個人心理学講義』『人生の意味の心理学』(アルテ)、プラトン『ティマイオス/クリティアス』(白澤社)など多数。
今回の質問は、ちょっと変化球です。
Q.岸見先生のリーダーシップ論は、ベストセラーになった著書の『嫌われる勇気』と、関係があるのでしょうか。あるとすれば、どのような関係でしょうか?
岸見:「嫌われる勇気」という言葉は、一人歩きしている感があります。
あの言葉は、「嫌われなさい」と、言っているわけではありません。そして、上司の立場にある人が「嫌われる勇気」を持つと、あまりいいことは起きません。
リーダーは、嫌われる勇気を持ってはいけない、ということですか。
「嫌われる勇気」は、優しすぎる人へのメッセージ
岸見:『嫌われる勇気』を通じて、私たちがメッセージを伝えたかったのは、立場的に弱い人、職場でいえば、部下の人たちです。そういう人たちが「言いたいことがあってもなかなか言えない」という状況があるけれど、「上の立場にいる人の顔色をうかがわず、言いたいことを言い、言うべきことを言えるようになるべく、勇気を出さないといけない」と、訴えたかったのです。
岸見:嫌われる勇気を持たなくてはならない人というのは、例外なく優しい人で、人の気持ちが分かりすぎて、「こんなことを言うと、相手を傷つけるのではないか」ということに過剰なほど注意を向ける人です。そういう人たちに、自分の発言によってほかの人が動揺したり、多少、波風が立つことがあったりしても、本当に言うべきことは言わなくてはならない、と、訴えたかったのです。
それには、連帯していく姿勢がいると思います。自分がここで、言うべきことを言う勇気を持てば、支持してくれる人は絶対いるのだ、という自信を持たないといけない。自分だけが孤立無援ではない。状況は変わりつつあるのだということをぜひ知ってほしい。
そういうことで、「嫌われる勇気」という、かなり強い言葉を使いましたが、そこを誤解する方は多いように感じています。
上司に、聖人君子になれと言うのか?
岸見:部下に嫌われてでも、言うべきことは言わないといけない、というリーダーは、きっとパワハラをすると思いますし、部下の考えに耳を傾けないと思います。
だから、そういう立場にある人は、むしろ「嫌われる勇気」を持ってはいけない。
なるほど。しかし、ここまでお話を聞いてきて、岸見先生が考える「理想のリーダー像」は、少しハードルが高いように、私は感じています。管理職になったら、何というか、聖人君子にならないといけないのだろうか、といった印象も受けます。
これまでお話を聞いたり、本を読んだりして考えるに、岸見先生の考える理想のリーダー像とは、次のような人ですよね。
まず、何があっても部下を叱らず、命令口調も使わない。だからといって部下にこびるようなほめ言葉も言わない。それでも部下は、リーダーである自分を尊敬し、心を開いて率直に本音で話してくれる……。
このような先生のリーダー論には共感しますし、私もそのような存在でありたりたいと思います。
ただ、実際のところ、部下が自分に率直に何でも言えるようにしようと思って日々、努力しても、もともと人付き合いが苦手で内気だと、なかなか部下との距離感を詰めることができない。そういった理由で、難しさを感じる人も、多いような気がします。
岸見:アドラーは、「不完全であることの勇気」と言っています。The courage to be imperfect── この勇気を持たないといけないと思います。
話を聞いて納得し、「こうやるべきだ」と分かったのなら、できるところから実践してほしいです。
そのときに、「聖人君子にならないといけないのか」などと言ったり、思ったりする人は、やるべきことを実行できないことを正当化するために、そういうことを言っているだけです。
私の話に限らず、「話はよく分かりますが、でも……」と言う人のなかでは、教わったことを「実践しよう」という気持ちと、「無理だ」と主張する気持ちが、拮抗しているわけではありません。最初から「しない」と思っているのです。「でも」と言った瞬間、最初から「しない」と決心している。その決意表明をしているようなものです。
ですから、「聖人君子にならないといけないのか」というようなことを言わない勇気を持たないといけない。
なるほど。
「不完全である勇気」
岸見:とはいえ、一朝一夕で変わることはできません。
例えば、今まで部下を叱ってばかりいた人が、いきなり叱らなくなるようなことは無理でしょう。でも、この1週間を振り返ったときに、以前は1日3回、部下を怒鳴っていたけれど、最近は1日1回くらいで済んでいる、といった具合に、段階を踏んで、自分を変えていく努力をしているのならばいい。あるいは、以前はすぐにカッとなってしまっていたけれど、最近は、すぐにはカッとならず、カッとなってしまってから後悔するようになった、と思うだけでも、随分、進歩している。
だから、自分を勇気づけないといけません。
ハシゴもかけずに、いきなり2階の部屋に登るなどということはできないので、一歩ずつ、理想に向かって歩き始めていくという勇気を持たないといけない。
よく言われるのは「頭では分かる」。それならば、頭で分かってください。頭で分からないことは、実践もできないと思います。頭で理解した上で、自分ができることから、少しずつやっていく。一朝一夕に自分を変えることはできなくても、そういう不完全な自分も受け入れる勇気を持ってほしいです。
そういう実践をしているリーダーを見て、部下は勇気づけられるはずです。「私もああいう人になりたい」と。
岸見:『嫌われる勇気』を読んで、「ここに書いてあることを、私は昔から実践していた」と言う方がときどきいらっしゃいますが、本当だろうかと思うことがあります。
今回の『ほめるのをやめよう』に、私は「リーダーは部下を叱るべきでない」と書きましたが、それを読んで、「私は他人を叱ったことがない」と主張する人がいても、にわかに信じられないのです。
私もこうやって偉そうに話していますが、子どもが小さいときによく、私のところに駆けつけてきては、私の眉間のあたりを手で押さえつけたものです。それで、こう言うのです。「最近のお父さんの眉間には、複雑なしわが刻まれるようになった」と。
子どもはよく観察しています。お父さんは、外では「叱ってはいけない、怒ってはいけない」などと言っているけれど、「今、あなたは怒っていますよ」ということを、さりげなく指摘してくれる。
そこで、「いやいや、私は怒ってなんかいない」と言ってはいけません。「教えてくれてありがとう」と、返す。
不完全な自分を認めれば、相手も変わる
部下にも、そう言えばいいのです。例えば、「もう怒鳴らないようにするから」と、宣言しておけば、部下はきっと、「今、怒鳴っていましたよね」と、こっそり教えてくれるようになる。「自分は不完全だけど、このたび『部下を頭ごなしに叱ってはいけない』ということを学んだ。ついては、これから行動、態度を変えていこうと思うので、よろしくお願いします」と、部下に宣言すればいいのです。そうすると、部下はきっと教えてくれるようになります。
別に、聖人君子にならなくてもいいのです。完璧にできなくても、少しでも変わろうとしている上司の様子を見たときに、部下もきっと「あんなふうに生きたい」と思うでしょう。そして大抵、部下の方がやすやすと実践し、上司が取り残されてしまうのですが。
本当にそうですね。人間は不完全なものであって、それでもやっぱり、少しでも不完全な自分を変えたいという意志を持ち、ささやかでも、少しずつ歩んでいけば、やっぱり変わっていく部分がある。
岸見:そうです。
最初の回でお話しした通り、私も6年前に岸見先生とお話しした後、娘との接し方を変えようと思いました。「“上から目線”で叱るのはやめよう」と努力してきました。
それでももちろん、“上から目線”で叱ってしまうことはあったのですが、変えようと努力はしていて、そのことで娘との関係は以前よりよくなりました。娘には反抗心というか反発心の強いところがあって、それを受け入れられていなかった私がいた。けれど、そんな自分を変えようとしていることを、少しずつ理解してもらえるようになった。そんなうれしい体験は、最初の回で、お話しした通りです。
岸見:娘さんはきっと、お父さんの変化にすぐに気づかれたと思います。その気づきが、親子関係を改善する大きな力になったのでしょうね。
いや、本当にそうなのです。自分自身で変わろうと思い、少しずつでも実践していくことはとても大事ですね。
岸見:「そういうものなのだ」と思ってしまうと、人間は何も変えられなくなります。
私の話を「理想論だ」と言う人は、かなり多いです。「そんなことは、とても無理だ」と言われます。
でも、理想は、現実と違うから理想なので、現実を追認するだけでは、現実は変えられない。「子どもを叱らない」「部下を叱らない」なんていうことは、無理なのだというふうに、現状を肯定してしまったら、何も変わりません。
ええ、確かにそうですね。
岸見:娘さんはまず、「明らかに前と違うな」と感じられたはずです。このごろのお父さんは、前みたいに、当然のようには怒らなくなったことに気づかれた。それだけでも親子関係は大きく変わっていきます。リーダーと部下の関係でも同じことが起こります。
家庭だけでなく、職場での関係も良くしていきたいと心から思います。
岸見:しかし、「そんなことは、前から知っていた」などと、訳知り顔で言う親や上司がいたら、子どもや部下はどう思うでしょうか。どうでしょうか。
子どもは、大人の「言っていること」からは学びません。大人の「していること」から学びます。
だから、行動が伴わなければ、「あの人は、言っていることは立派だけど、やっていることがあれではね」と、冷ややかに見る。
いや、耳が痛いです。
部下との距離を縮めなくていい
岸見:それから、山崎さんが先ほど挙げられた「人付き合いが苦手で内気である」ことと「理想的なリーダーになるのが難しい」ことは、まったく関係ありません。
距離感を詰める必要は必ずしもないと思います。仕事ですから。仕事において距離感を縮める必要は必ずしもない。そこを過剰に考えると「飲み会に参加しなくてはいけない」というようなプレッシャーになってしまいますよね。
そういう妙なプレッシャー、確かにありますよね。
岸見:仕事は仕事なので、仕事の上での信頼関係を築くことで、距離が縮まる、と言うか、「この上司は信頼するに値するな」と思ったときに、距離はおのずと縮まります。だから、無理に距離を縮めようなどと考える必要はないと、私は思います。
上司であることに自信がないあなただから、
よきリーダーになれる。そのために―
◎ 叱るのをやめよう
◎ ほめるのをやめよう
◎ 部下を勇気づけよう
『嫌われる勇気』の岸見一郎が放つ、脱カリスマのリーダーシップ論
ほぼ日社長・糸井重里氏、推薦。
「リーダー論でおちこみたくなかった。
おちこむ必要はなかったようだ」
●本文より―
◎ リーダーと部下は「対等」であり、リーダーは「力」で部下を率いるのではなく「言葉」によって協力関係を築くことを目指します。
◎ リーダーシップはリーダーと部下との対人関係として成立するのですから、天才であったりカリスマであったりすることは必要ではなく、むしろ民主的なリーダーシップには妨げになるといっていいくらいです。
◎ 率直に言って、民主的なリーダーになるためには時間と手間暇がかかります。しかし、努力は必ず報われます。
◎ 「悪い」リーダーは存在しません。部下との対人関係をどう築けばいいか知らない「下手な」リーダーがいるだけです。
◎ 自分は果たしてリーダーとして適格なのか、よきリーダーであるためにはどうすればいいかを考え抜くことが必要なのです。
この記事はシリーズ「Books」に収容されています。WATCHすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。
Powered by リゾーム?