「用に立つ者は必ず、俗人に誹謗されるものだ」

 しかし西郷は運が良かった。当時の藩主・島津斉彬(しまづ・なりあきら)が西郷の書いた上申書を読んでくれたのです。「御国(薩摩藩)ほど農政乱れたる所、決してござあるまじく(以下略)──」といった大それた内容でした。にもかかわらず、斉彬は西郷の篤実で謹直な人柄を見抜きました。「粗暴で周囲と仲良くできない」といった西郷を誹謗中傷する声は、斉彬の耳にも届いていましたが、名君は信じませんでした。

 「用に立つ者は必ず、俗人に誹謗されるものだ。今の世の中に人の褒める者はあまり役に立つ者ではない」と斉彬は語り、西郷を“庭方役(にわかたやく)”に取り立てます。斉彬の非公式な、秘書的な役割を担うようになりました。

斉彬の名君ぶりを象徴するエピソードですね。人のうわさ話や評価を信じず、自分の目で見て、どう感じたかを大事にする。そんな主君だからこそ、西郷もほれこんだのでしょう。

加来:西郷は自分を取り立ててくれた斉彬を敬愛し、「お天道(てんとう)さまのような人でした」とまで言っています。斉彬のスポークスマンとして、西郷は存在感を高めていきました。

 ペリーの来航により、天下が改革派と守旧派の2つに割れて対立する中、西郷は斉彬の意を受け、(改革派が推す)一橋慶喜(ひとつばし・よしのぶ)を将軍にするために奔走します。この過程で西郷の名前は、次第に天下に知られるようになりました。

 しかし幕府の改革派は、慶喜の擁立に失敗。斉彬は武装して上洛することを決めますが急逝してしまう。西郷は幕府に追われて薩摩に落ち延びますが、斉彬の死に絶望し、道中で、同行していた清水寺の住職・月照(げっしょう)と共に入水自殺を図ります。しかし西郷だけが死にきれずに、生き残ってしまいました。

 
「最後に何でも相談できる相手がいなかったことが西郷と光秀の不幸だった」と語る加来耕三氏
「最後に何でも相談できる相手がいなかったことが西郷と光秀の不幸だった」と語る加来耕三氏
 

生き恥をさらしたわけですね。その後、幕府の追及もある中で、西郷は奄美大島に流されます。

加来:奄美大島でしばらく暮らした後に、西郷はいったん藩から呼び戻されます。しかし西郷は、斉彬の異母弟で権力を握った島津久光と対立します。無礼な言動などから久光の怒りをかってしまい、今度は徳之島、さらに沖永良部(おきのえらぶ)島へと流罪になります。

本当に空気を読めないというか、「読まない」タイプだったようですね。

加来:西郷は生命(いのち)の危険を感じるような牢獄生活も経験しますが、藩政の実務を預かっていた大久保一蔵(いちぞう、のち利通)が、呼び戻そうと働きかけます。西郷嫌いの久光をなんとか説得して、ようやく再活動にこぎつけたのでした。

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