織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、真田幸村(信繁)、武田信玄、上杉謙信……。歴史に名を残す英雄たちは、どのような失敗を経験し、そこから何が学べるのか。日経BPから『歴史の失敗学 25人の英雄に学ぶ教訓』を刊行した歴史家の加来耕三氏が、独自視点の軽快かつ濃密な歴史物語で、25人の英雄たちの "知られざる失敗の原因" を明らかにし、ビジネスパーソンに役立つ教訓を浮かび上がらせる。

 今回取り上げるのは明治維新の立役者として知られる西郷隆盛。討幕を成功させ、新政府の中心人物になったものの、内部対立を経て下野。西南戦争を起こして非業の死を遂げた西郷の実像はどのようなものだったのか。加来氏に聞いた。

(聞き手は田中淳一郎、山崎良兵)

西郷隆盛といえば、幕末と明治維新の時代に強烈な存在感を示した人物として広く知られています。上野公園にある高村光雲作の銅像も「上野の西郷さん」として親しまれています。西南戦争を起こした逆賊だった西郷が、1889年に名誉回復され、宮内省からの下賜金と全国2万5000人以上の寄付金で巨大な銅像が建設されたのは、それだけ人気が高かったからでしょう。実際の西郷隆盛はどのような人物だったのでしょうか。

加来耕三氏(以下、加来):今風に言うと、“空気の読めないやつ”だったと私は考えています。西郷隆盛は薩摩藩(現在の鹿児島県)の下級武士の長男で、18歳の時に、今でいうと役場と税務署を兼ねたような藩庁の端役につきました。

 しかしそれから10年間、彼は一度も昇進することがありませんでした。上司や同僚から嫌われ、敬遠されていたからと言えるでしょう。なにしろ、自分が正しいと信じたことは、相手が目上の人や上役であっても、容赦なくずけずけとものを言う。それで疎外されると、さらにその上の上役にまで嚙みつくといったありさまでした。

薩摩藩主・島津斉彬に見いだされて活躍するようになった西郷隆盛だったが、斉彬の死後に流罪となり、牢に入れられて生死の境をさまよった(画:中村麻美)
薩摩藩主・島津斉彬に見いだされて活躍するようになった西郷隆盛だったが、斉彬の死後に流罪となり、牢に入れられて生死の境をさまよった(画:中村麻美)

言うことを聞かないだけでなく、自分の意見が通らなければ、さらにその上の上司にまで直訴する。そんな部下がいたら、上司としては扱いづらくて手を焼くのも分かります。

加来:詳細は『歴史の失敗学』に書いた通りですが、通常なら西郷は、藩という組織で出世することはなく、不平や不満ばかりを言う、偏屈な人間として、無名のまま終わったはずです。

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