歴史家・作家の加来耕三氏が著した『渋沢栄一と明治の起業家たちに学ぶ 危機突破力』では、渋沢栄一だけでなく、目次に出ていない人物(小栗上野介忠順)も含めると、計11人の幕末・明治の起業家が登場する。

 前回は、コロナ禍の時代に参考となる人物として、同書に取り上げた人物のうち、“日本のセメント王”となった浅野総一郎について語ってもらった。今回は、三菱財閥の二代目当主となった岩崎弥之助を紹介してもらう。

 岩崎弥之助は、三菱の創業者・岩崎弥太郎の弟だ。加来氏は、この弥之助が、ふてぶてしくがむしゃらに頑張ってきた岩崎弥太郎とは、全く違うタイプのリーダーであったからこそ、令和の時代に求められるリーダー像に重なるという。なぜ、そう言えるのか、加来氏の考えを聞いた。

(取材:田中淳一郎、山崎良兵 構成:原 武雄)

 岩崎弥之助は、いやいやリーダーにさせられた男なのです。手を突っ込みたくなかったのに、火中の栗を拾わされてしまった。ですが、弥之助の、このリーダーのなり方にはじまり、彼の素質、性格、そして成した功績を考えると、令和の時代のリーダーにあるべき姿を見せているように思うのです。

 まず、弥之助のリーダーぶりを紹介しましょう。

<span class="fontBold">岩崎弥之助(いわさき・やのすけ)</span><br>嘉永4年(1851年)、土佐国安芸郡井ノ口村(現・高知県安芸市)生まれ。兄・弥太郎とは16歳違い。土佐藩校の致道館、重野安繹の私塾成達書院、米Edward Hall's Family School for Boysに学ぶ。明治6年(1873年)に帰国、三菱商会に入社。明治18年(1885年)に二代目社長就任。(画・中村麻美)
岩崎弥之助(いわさき・やのすけ)
嘉永4年(1851年)、土佐国安芸郡井ノ口村(現・高知県安芸市)生まれ。兄・弥太郎とは16歳違い。土佐藩校の致道館、重野安繹の私塾成達書院、米Edward Hall's Family School for Boysに学ぶ。明治6年(1873年)に帰国、三菱商会に入社。明治18年(1885年)に二代目社長就任。(画・中村麻美)

 弥之助が三菱の当主の座に就いたのは、明治18年(1885年)です。創業者である兄の岩崎弥太郎の急死に伴い、二代目に担ぎ出されました。弥太郎の享年は52。このとき弥之助は35歳でした。

 三菱は、西郷隆盛が九州で敗れた西南戦争のあった明治10年(1877年)末、汽船61隻、総トン数3万5464トンを所有していました。全国の汽船総トン数の73%を占め、日本の海運業を一手に掌握して、莫大な利益を上げていたのです。

岩崎弥太郎は国・財界とガチンコ勝負

 ところが、三菱の専横をよしとしない農商務省(現・農林水産省と経済産業省)は、渋沢栄一や大倉喜八郎、浅野総一郎ら財界人と手を組み、さらに三井も加担して、三菱に対抗する海運会社を設立して、三菱潰しを画策します。それが明治16年(1883年)に誕生した、半官半民の海運会社「共同運輸会社」です。

 これに対して兄・岩崎弥太郎は、真っ向から挑戦を受けて立ち、全身全霊を傾けた戦いに突入しました。一切妥協せず、勝つか負けるかの戦いです。

 運賃のダンピング、航行スピード競争、船員の取り合いなど、激しい競争が繰り広げられました。結果、双方の輸送・運搬の質は低下し、スピードを競うことから衝突事故も多発するなど、競争は泥沼化。3年近くたっても両社の死闘は決着せず、そのなかで弥太郎は病に倒れたわけです。

続きを読む 2/4 裏でひそかに和解の方法を探る弥之助

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