史上初の女性天皇・推古天皇の御代を描いた歴史小説が相次いで刊行された。幅広い時代を網羅する伊東潤氏の『覇王の神殿 日本を造った男・蘇我馬子』(潮出版社)と新人・天津佳之氏の『和らぎの国 小説・推古天皇』(日本経済新聞出版)。歴史教科書的には、日本の国家体制は豪族・蘇我氏が滅ぼされた大化の改新から始まったとされるが、ふたりの作家は女帝の甥の摂政・聖徳太子(厩戸皇子)と外戚でもあった大臣・蘇我馬子が政治を主導した推古朝こそ、日本の国の成り立ちと口をそろえる。なぜ今、1400年前の推古朝なのか。最終回となる今回は、女性天皇が相次いだ時代背景や「和」を重んじる日本の精神文化や社会のあり方を論じ合う。
(前回はこちら)

天津佳之氏(以下、天津氏):古代のこの時代、蘇我氏と並ぶ朝廷の一大勢力であった物部氏の存在はどう見られていますか。仏教導入を巡っても2代にわたって蘇我氏と「崇仏論争」を繰り広げました。丁未の乱で蘇我馬子が物部守屋を打ち破ったことで、歴史の表舞台から姿を消すわけですが。
伊東潤氏(以下、伊東氏):物部氏は蘇我氏以上に記録が残されていません。『和らぎの国』では、危機一髪で蘇我氏が丁未の乱を勝ち抜いたという設定ですが、日本書紀によると、大王(天皇)家の皇子がすべて蘇我氏についていますね。これは馬子の政治的駆け引きがうまかった証拠でしょうね。戦う前に勝敗を決している。


圧倒的な武力を持つ物部氏に蘇我氏が勝てた理由
天津氏:物部打倒の勢力を結集させるために、蘇我氏の演出はたしかにうまかったですね。
伊東氏:戦う前の政治力で、蘇我馬子が物部守屋を上回っていたということでしょうね。しかし、物部氏は蘇我氏と違って圧倒的な武力を持っていた軍事氏族です。このあっけない滅亡は歴史の謎ですね。
天津氏:全国のいわば警察組織を束ねていた氏族ですからね。
伊東氏:こうは考えられませんか。物部氏の軍事力は抜きんでていた。ところが、経済制裁という形をとられると弱かった。この時代、屯倉を含め国の金蔵を押さえていたのは蘇我氏です。経済制裁で物部氏を締め上げていったのではないでしょうか。例えば鉄製武具や農工具を入手できなくするとか。こうしたこともあって物部氏を見限った皇子たちが、そろって馬子についたのではないかと。
天津氏:厩戸皇子と蘇我馬子が主導した遣隋使でも、力に訴えることができないので、文明国としてどう認めさせるかを理詰めで考えて、結局、中国を説得してしまったという感じですからね。百済・新羅・高句麗の三韓は、隋の冊封国(中国に朝貢する従属国)になりましたが、この時代の日本はまぬがれていました。
伊東氏:その点、蘇我馬子と厩戸皇子は実に有能ですね。三韓の上に立つには、日本が仏教を信奉する文明国だと、隋や唐に認めさせなければならない。そのためには目に見える堂塔伽藍(がらん)を造り上げ、隋や唐の使者が来たときに見せる必要があったわけです。隋や唐も日本が仏教国だと知れば、親近感を抱いて友好的になるわけで、それが敵対している新羅への牽制(けんせい)につながるわけです。こうした微妙なかじ取りや駆け引きは、現在でも学ぶべきだと思います。
天津氏:それに加えて厩戸皇子と蘇我馬子は、国民に目に物見せることの効果を分かって国政を運営していたという気がします。古来日本の神様が証しを見せる動きが多いということも関係しているのかもしれません。イザナギとイザナミの神産み・国産み、アマテラスとスサノオの誓約、天岩戸の伝説……。
伊東氏:そうですね。正統な様式にのっとった堂塔伽藍(がらん)は、隋や唐の使者だけでなく豪族や民にも効果がありました。やはり説法よりもビジュアルの方に説得力があるわけで、「これが仏教の言う天寿国か」と民衆に思わせることで、信者を増やしていったわけです。仏典などの知識階級向けのソフトと堂塔伽藍というハードが両輪となって、仏教は国内に浸透していったわけです。
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